言葉の語源

 言葉は摩訶不思議。

 普段何気に使っている様々な「言葉」も、夫々の語源や

 成り立ちは?となると、案外何も解っていない。

 本来の意味や生成過程を知らなくても、相通じてなんの

 支障もない処が、なんとも不思議な「モノ」ではないか。

 特に、日本語の場合、その語源が仏教に由来する言葉の

 予想以上に多い事に驚く。

 それも、仏教用語との関連を感じさせない言葉が案外多く、

 しかも、時代と共に、本来の仏教での意味合いとは異なる

 意味で通用し、使われていることが結構面白いのである。

  - - -

 因みに、仏教由来の言葉に関する本から、

 面白そうな言葉を以下に列挙してみる。

 義理  仏教での本来の意味は物事の筋道を正しく理解する。

 成仏  仏に成る 本来は悟りをひらく事

 面目  禅宗では真理を表す

 皮肉  仏の道の真意に達していない、皮や肉を手に入れた

     に過ぎない事 → そこから現在の「皮肉」の意

 退屈  元々は修業に耐えられず逃げだしてしまう事

 迷惑  元々は 文字通り迷い戸惑う意

 出世  釈迦が現生に表れる事 また出家する事

 工夫  問答からさらに深く考えを掘り下げる事

 虚仮  言っていることと心が一致しない、真実と違う意

 縁起  正式には 因縁生起 その略語

 方便  サンスクリッド語はウバーヤ 悟りをひらく方法

 世間  修生世間 国土世間 五陰世間  

     現在では人間世界のみを意味する

 玄関  玄→禅 関→関所 元々は悟るための関所の意

                         等々

 日常会話での言葉も1語1語結構奥が深い事が垣間見える

 ではないか。

  - - -

 (序での雑話)

    「旦那」というのは、ダーナ(dana)の音訳。

     元々の意味は「物をくれる人」という事らしい。

    お寺の「檀家(ダンカ)」も お布施をくれる家

    ということからきているらしい。

    だから・・・

    人からモノを頂いたら

     「ダンケシェーン!」  (なのかな?)

    

     

  

 

 

 

 

 

| コメント (0)

「自適」は「素敵」

  「悠々自適」という四字熟語がある。

  決して悪いイメージの語意ではないのだが、

  今どき、「悠々自適に過ごしています」なんて言われると

  なんだか白けるようなニュアンスがある。

  「悠々自適」には、贅沢三昧とか、お金には全く心配のない

  生活振りと言った意味合いを感じ取る為であろうか。

  が、 本来「自適」の意味する処は、誰もが素直に憧れる

  境地なのではないだろうか。

  因みに手許の広辞苑で「自適」の意味を見ると、

   「何物にも束縛されず心のままに楽しむこと」とある。

  ついでに「悠々自適」を見ると、

   「俗世を離れ何物にも束縛されず、おのが欲するままに

    心静かに生活すること」 とある。

  物質面(金銭面)のニュアンスは全くと言っていい程

  感じ取れず、あくまで「精神性」の問題である。

  これなら、ある程度人生を経てきた誰もが思い憧れる

  境地ではないだろうか。

  文字通り、「自適」は「素敵」と言えよう。

  ただ1つ気を付けたい事がある。

  世俗を離れ・・引きこもり、世間との断絶ではツマラナイ。

  おのが欲するまま・・頑固や傲慢ではツマラナイ。

  周りとの協調、程々の気配り、思い遣りあってこその

  「心静か」である。

  等々、諸々を踏まえての「悠々自適」こそ、貧乏なりに

  想い描く境地ではないだろうか。

  改めて、「自適」は「素敵」なのである。

                    令和元年6月1日

   

  

  

 

| コメント (0)

気になる事ー素朴な疑問ー

 令和時代幕開けの華やかな雰囲気のなかで、

 実はひっそりと財務省から2018年度末時点の

 国の借金は1103兆円との発表があった。

 年間15兆の増加で、3年連続過去最高との事で

 ある。

  - - -

 数字が大きくなり過ぎて、ある種の「マヒ」状態

 なのか、今やメディヤも大きく取り上げる事もなく

 したがって世間も大騒ぎすることもない。

 そう言えば、この処、政府からも「財政再建」の

 声はほとんど聞こえてこない。

 (因みに、11日の朝刊各紙を拾い読みしたところ、

 本件を小さく取り上げていたのは2紙、他は記事にも

 なっていなかったのでは・・)

  ー - -

 想い起こせば、10年以上も前、(当時の国の借金は

 確か7~800兆だったか)このままでは1千兆台だ!

 大変な事と、国を挙げてやれ財政再建だ、無駄を省け!

 と、大騒ぎしていたではないか。

 あの騒ぎは一体何だったのであろうか。

  - - -

 一方、国の借金といっても、政府予算の帳尻合わせによる

 国債発行が多くを占め、借金に見合う資産バランスからみて、

 我が国の財政は心配に当たらない、という説もある。

 が、我々国民の素朴な疑問として、借金が増え続けても

 全く問題ないのなら、何故、増税(消費税増税)によって

 帳尻を合わせなければならないのか。

 それこそ、国民にとって大問題ではないのか。

 それとも、借金が増え続けても、国債を発行し続けて

 対応すればいいではないか・・という事なの?

  - - -

 また、借金に見合う資産があるので、日本の国力から

 して、全く問題ない、という説もよく聞く処である。

 が、感覚的な疑問として、バブルが崩壊して、資産価値が

 暴落、多くの借金を抱えた企業や個人がその波に

 見舞われた、という事を思い起こすのである。

 バブル全盛時、資産に見合う借金なら問題ないという

 論理を、である。

 国際社会、これから何が起こるかもしれない。

 何が起こっても、万全の備えは、大人の使命である。

 「借金は多いより出来るだけ小さくする」に

 越したことはない、と単純に思うのだが如何なものか。

  - - -

 1103兆円借金の財務省発表に際し、

 現時点での総理や財務大臣からのコメント(公表)は

 今のところ無いようである。         了

 

  

 

 

 

 

 

| コメント (0)

新時代の涼風

      令和元年5月1日(水)

  深い意味があるわけでもないが

  朝から 「昭和」記念公園を散策する。

  果たして、私の平成のモニュメントは

  何処になるだろうか

  などと 思ったりしながら。

  5月の風 心地よし。

  昭和から平成を経て、今日「令和」を迎える。

  自然な流れではあるけれど

  やはり様々な人生の様相が去来し

     亡き両親に手を合わせる。   

   Dsc01451

 

 

 

 

 

 

  

 

| コメント (0)

「日本経済」の総括

平成も残すところあと僅か。

来たる令和時代の日本経済は如何ばかりかと、

気になる処である。

この時点で、自分なりの「経済環境」私見を総括して

おくのも悪くないと思うのだが、

実態経済は改めて記す程の動きもなく、相変わらずの

足踏み状態。

そこで、一寸変則的技(ワザ)であるが、

「ある意図」を持って、6年程前に、当時の経済状況について

記した小文があるので、それを以下に書き写してみる。

  - - -

 「賽は投げられた」  2013年10月

   もう後戻りは出来ない。ふらついてもいけない。

   あとは腰を据えて前に進むのみである。

   現政権の経済政策「アベノミクス」についてである。

   この政策の命題は「経済成長」への舵取りである。

   ある経済閣僚が次のように説明している。

    「経済を成長させる事によって、懸案の全ての問題が

     解決に進む。今、我々に課せられた基本課題は、

     経済の成長である」

   これを具体的に要約すれば、

     デフレ脱却・経済成長 → 税収増 → 社会保障、

     財政、雇用の改善・安定化 という事になろう。

   「アベノミクス」の論理的組み立ては間違ってはいない。

   理屈や政策の狙いはそれなりに理解できる。

   が、 巷間流れている空気は、「経済を成長させれば・・・」

   というその前提・仮定そのものに対する疑念である。

   その疑念に政府は答えられていない。

   振り返れば、昭和39年、東京オリンピックの開催を

   契機にして、世界主要国仲間入りへの足取りが、脳裏に

   残っている。今回東京オリンピック開催エントリーで、

   (その後決定)夢をもう一度の思考も解らないではない。

   が、その当時とは、経済環境、構造、国際状況が大きく

   変ってきている事を忘れてはならない。

   ひと言でいえば、当時(登り坂の時代)と現在(下り坂の

   時代)の違いである。

   当然、下り坂での成長政策の舵取りは複雑で微妙である。

   構造面を見ても、 少子高齢化と社会保障・財政実態、

   雇用の劣化(非正規雇用問題)、地方経済の疲弊(過疎化)

   後進国の追い上げ、等 国内経済成長の阻害要因は、

   深くで重い。

   こうした状況のなかで、極めて難しい綱渡り(バランス)を

   強いられるのが、「アベノミクス」の成功前提である

   「経済成長」の実態である。

   さらに、成長を阻害し兼ねない「消費税増税」の是非決断を

   強いられてもいる。

   果たして、関係経済閣僚たちは、この現実をどのように捉え、

   如何ほどの「覚悟」をもって立ち向かおうとしているのか。

     賽は投げられたのである。

    - - -

   今、読み返してみても、ニュアンス的には左程の違和感はない。

   果たして、現在「アベノミクス」の成果は・・・。

   単なる批判ではなく、より深く令和時代の経済社会を見極める

   事が必要と改めて再認識させられる。

   

     

   

  

 

 

| コメント (0)

「当たり前」を疑う

 いつの間にか始まり、それが継続・習慣化して誰もが

 何の疑問や疑念を持たなくなり、いつしかそれが

 「当たり前」として認証されるような事が案外多く

 あるものである。

 そんな「当たり前」の事も、改めて吟味・考察してみると、

 結構別の一面が顔を出すものである。

  - - ー

 若い頃に比べ、テレビで野球中継を観戦することが、

 ほとんど無くなった。

 別に野球そのものに興味が無くなったわけではない。

 歳とともに、時間の使い方が変わってきたという

 ことであろうか。

 野球中継に疎遠になると、各球団の中心選手でさえ顔や

 名前に疎くなるものである。

 今や、現役選手より、解説者の方がよく知っているという

 有り様である。

 さて、その解説者の事であるが、先日偶々野球中継を

 ちらっと見ていた処、変なことが気になってしまったのである。

 今どき、野球中継を熱心に見るような人は、ルールや諸々は

 先刻承知であり、草野球も含め経験者は相当多い筈である。

 そうしたなかで、今もなお野球中継で、解説者という肩書の人が

 「解説」するニーズが本当にあるのだろうかという、文字通り

 変な疑問である。

 そもそも、その「解説」という中身は、本当に本来意味する処の

 「解説」なのかという疑問でもある。

 昔、ある解説者が、9回裏同点の場面で、「ここで1発出れば、

 勝負が決まるのですがね」と言った話(ジョーク?)がある。

 そういえば、受け売りだがこんなコント風な話もある。

 1点を争う試合後半 1アウト 走者1塁

  アナウンサー : 「打たせますかね、それともバント?」

  解説者    : 「両方考えられますね」

  アナウンサー : 「〇〇選手は脚もあるので、打たせても・」

  解説者    : 「そう、面白いかも」

  アナウンサー : 「打ちました 見事なセンター前ヒット!」

  解説者    : 「彼は打力もありますからね」

 コント風と言ったが、別段解説者全般を悪く言う意図はない。が、

 大体アナウンサーと解説者のやり取りはこんな風ではないだろうか。

 視聴者もこれをアレコレ言うわけでもなく、至極「当たり前」

  として受け止めている。

 だとすれば、野球中継における解説者の「本当」の役割、その

 「解説」について改めて考えてみるのも一興ではないか・・・と。

   - - -

 以下は私なりの偏見的野球解説者試論。

 勿論、解説者の中心的役割は、実績・経験に裏付けされた

   適格なコメントであり、専門的視点からの文字通りの解説で

   あることは言うまでもない。

 が、現実はどうもそれだけではない、というのが私なりの

   見方である。

 結論的にいえば、テレビ番組としての「差別化」である。

 野球の試合をアナウンサーによって中継・放映するだけでは、

 各テレビ局ともほとんど同一化、同質化は免れない。

 なんらかの特徴、他局との差別化を図るためになかば必然的に

   生まれたのが「解説者」の存在である。

 したがって、ある程度の「解説者」としての能力は必然としても

 差別化を図るための、キャラクター性、人気、話題性などが結構

 モノを言う世界。

 解説の中身云々もさりながら、如何に野球を面白く、興味の

  あるような内容を織り込み、場を盛り上げるか・・が「解説者」

  としてのもう1つ重要な役割である。・・というのが私なりの

   見方である。    如何なものであろうか。  

 

 

 

 

 

 

| コメント (0)

名残りの桜

 「文化の香り」を感じさせない企業は、たとえ好業績を持続して

  挙げていても一流企業とはいえない、というのが私なりの

  勝手な自論である。

  勿論、(営利)企業である限り、一定の収益を確保・維持

     する事は企業存続の絶対条件ではあるが、それだけでは

     なんだか味気ない。

  変なたとえだが、ただ相撲が強いだけでは「名力士」として、

  人のこころに残らないのと同様である。

  逆に言えば、一流企業とか老舗と呼ばれるような企業は、

  大抵その企業独特の「文化の香り」とか「文化の風土」と

  いったものを漂わせているものである。

  地域社会との共生とか、地道な文化活動によって、

     自然と世間の共感を得、その積み重ねが企業に対する信頼、

     信用に繋がり、それこそが得難い無形の企業財産になる、

     のではなかろうか。

    - - -

  そんな事を何気に想い描いたきっかけは・・・

  過日、一寸したご縁で、ある有名企業主催の「園遊会」に

  出席させて頂いた事による。

  同社所有の広々とした庭園での園遊会、それも丁度桜が

     見頃の春に毎年行われているものである。

  地元の市長から、我々名も無き庶民まで、企業外部の人達も

  大勢招かれており、文字通り企業としての地域社会との共生、

  その一端を体感するこことなったわけである。

  お蔭で、平成最後の見事な桜を満喫させて頂いたという次第。

  当日撮った桜の写真でも添付しておきましょう。

    Dsc01411

    Dsc01410 

    Dsc01412

    Dsc01413 

 

 

   

 

 

| コメント (0)

新しい時代へ

2019年4月1日  新年号発表  「令和」

 初の国書 万葉集出展との由。

 初春「令」月  気淑風「和」  梅披鏡前之粉  蘭薫珮後之香 

     - - -

 父  :  明治   大正   昭和

 母  :       大正   昭和   平成

 私  :            昭和   平成   令和

     - - -

 国書出展がまず画期的であった。

 一口に万葉集から~といっても、4500首程から多くの条件を

   クリアーする言葉を厳選するだけでも大変な事である。

   さらに今回は「令和」という言葉をそのままもってきたのではなく、

    一首(序)にある「令」と「和」をもって「令和」とした処に

  素直に凄さを感じた。

 ただ、「令和」以外の原案である、英弘(えいこう)、

   久化(きゅうか)広至(こうし)、万和(ばんな)、

   万保(ばんぽう)、が年号としては今1つ風格に欠けるように感じた。

 これでは有識者でなくても「令和」を推薦するのではないだろうか。

 この事から、巷間1部に、予め「令和」ありき・・とか、選定に至る

   プロセスが 不透明といった声が聞こえてくるのも解るような気がする。

          (あくまで個人的な感想)

     - - -

 今1つ、改めて感じた事は、 人は自らの時代を選べない、という

    いわば当たり前の事。

 先人からバトンを引き継ぎ、与えられた時代を生き、そして次の

   世代にそのバトンを引き継ぐ。 

   その原初的な当たり前の事の再確認であった。

 さて、来たる「令和」はどういう時代を形成するのだろうか。

 せめて気分を一新し、新たな時代を迎える事としたい。 

 

  

 

   

 

  

 

| コメント (0)

おふくろの酒

   今月(3月)は、母の祥月である。

   十数年前、93歳で亡くなった。 大往生といえる。

   その晩年は、専ら31文字の歌を作ることが、楽しみの1つ

   だったようである。

   今、私の手元に、折々に歌を書き綴ったノートが何冊かある。

   これらの歌は、いわゆる「賞」を目指して技巧を練り、高めると

   いうようなものとは違い、あくまで日常の何気にこころに浮かぶ

   あれこれを、素直に31文字に表現したもの、と息子の私には

   解るのである。

   ノートのなかから、適当に2~3首 書き出しておく。

     久方に 生まれし土地を訪れば 脳裏に刻む古里は無し

     落葉にも 青き日があり 我もまた 心通じる夕暮れの道

     顔形 姿変れど思いは1つ 父を亡くした子らの心中

      - - -

   この母の若き日々に、酒を呑むイメージは全くなかった。

   事実、外でも家の中にあっても、たとえばお祝い事の席で

   父や我々息子は「適当」に飲んだが、母がお酒を口にする姿を

   見たことはない。

   因みに、母の父親(私からは母方の祖父)はいける口だった。

   それも、これ程旨そうに酒を呑む人はいないという位で、

   しかも今から思うと品のある酒であった。

   幼児の頃の私も面白がって酌をしたという記憶がある。

   その娘である、私の母にもその血が密かに流れていたので

   あろうか。

   晩年になってからだが、晩酌をするようになっていたから

   人生は面白い。

   その酒も、息子の私が言うのもなんだが、極めて端正というか、

   崩れることのない酒であった。

   「決まった盃」、と言っても大振りの湯飲み(蕎麦屋で出すような

   大振りの湯飲みで1合2尺程度の分量か)で、 毎晩1杯

   決まった量を、ゆっくりと時間を掛けて楽しむという酒である。

   飲む程に、顔が赤くなったり、饒舌になるというわけでもない。

   「今日も1日ご苦労様・・」という感じで晩酌を終える。

   私からみれば、こういう酒の呑み方もあるのか、とある種の

   酒飲みの究極の「境地」を教えられたような酒であった。

   母祥月の或る日、ふと思い出したのは

    「我 未だその境地に達せず」 のおふくろの酒。

 

 

 

 

 

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

ほんのジョーク

   ある雑誌を読んでいて一寸笑ってしまうジョークに出くわした。

   偶には如何と、ほんのジョークです。

      - - -

   まずは、どこかで聞いた事があるような話から・・・。

     ある豪華客船が難破

     船長は、 オロオロと躊躇しているだけの乗客に対し。

     速やかに船から脱出して海に飛び込むよう

     各国の乗客に指示した。

       アメリカ人には

        「1番に飛び込めば、英雄になれますよ」

       イギリス人には

        「流石に紳士だ、と言われますよ」

       ドイツ人には

        「飛び込むのがこの船の規則です」

       イタリア人には

        「飛び込めば女性にもてますよ」

       そして次に日本人に指示しようとしたところ

         その日本人は、やおら携帯を取り出し、

         本社に電話、飛び込むかどうか指示を仰いだ。

            (一寸いじましい考えオチですね)

           - - -

    さて、次は少々風刺的なジョーク

       ある国の首相が、自らの肖像を印刷した切手を

       担当省から発行させた。

       ところが、この切手、封筒に付かないと苦情が殺到。

       調べてみると、その原因が解った。

       皆、肖像画の方に唾を付けていた・・・・。

          - - -

   もう1つ、決して私の好み・・というわけではありませんが。

      ある所に、好きなものを叫びながら飛び込むと

      それで一杯になるという不思議な湖があった。

        ドイツ人は、「ビール!」と叫んで飛び込んだ。

          すると湖はビールでいっぱいになった。

        フランス人は「ワイン!」と叫びながら飛び込んだ

          やはり湖はワインでいっぱいになった。

        日本人は「酒!」と叫んで飛び込んだ

          湖は酒でいっぱいになった。

        次に○○人が、歓び勇んで湖に向かって走り出した。

        が、途中で石につまずいてしまい、彼は

        「クソ!」と叫びながら湖に飛び込んだのである。

                          ・・・・・・ 了

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

«「ヒルズ」界隈散策