「当たり前」を疑う

 いつの間にか始まり、それが継続・習慣化して誰もが

 何の疑問や疑念を持たなくなり、いつしかそれが

 「当たり前」として認証されるような事が案外多く

 あるものである。

 そんな「当たり前」の事も、改めて吟味・考察してみると、

 結構別の一面が顔を出すものである。

  - - ー

 若い頃に比べ、テレビで野球中継を観戦することが、

 ほとんど無くなった。

 別に野球そのものに興味が無くなったわけではない。

 歳とともに、時間の使い方が変わってきたという

 ことであろうか。

 野球中継に疎遠になると、各球団の中心選手でさえ顔や

 名前に疎くなるものである。

 今や、現役選手より、解説者の方がよく知っているという

 有り様である。

 さて、その解説者の事であるが、先日偶々野球中継を

 ちらっと見ていた処、変なことが気になってしまったのである。

 今どき、野球中継を熱心に見るような人は、ルールや諸々は

 先刻承知であり、草野球も含め経験者は相当多い筈である。

 そうしたなかで、今もなお野球中継で、解説者という肩書の人が

 「解説」するニーズが本当にあるのだろうかという、文字通り

 変な疑問である。

 そもそも、その「解説」という中身は、本当に本来意味する処の

 「解説」なのかという疑問でもある。

 昔、ある解説者が、9回裏同点の場面で、「ここで1発出れば、

 勝負が決まるのですがね」と言った話(ジョーク?)がある。

 そういえば、受け売りだがこんなコント風な話もある。

 1点を争う試合後半 1アウト 走者1塁

  アナウンサー : 「打たせますかね、それともバント?」

  解説者    : 「両方考えられますね」

  アナウンサー : 「〇〇選手は脚もあるので、打たせても・」

  解説者    : 「そう、面白いかも」

  アナウンサー : 「打ちました 見事なセンター前ヒット!」

  解説者    : 「彼は打力もありますからね」

 コント風と言ったが、別段解説者全般を悪く言う意図はない。が、

 大体アナウンサーと解説者のやり取りはこんな風ではないだろうか。

 視聴者もこれをアレコレ言うわけでもなく、至極「当たり前」

  として受け止めている。

 だとすれば、野球中継における解説者の「本当」の役割、その

 「解説」について改めて考えてみるのも一興ではないか・・・と。

   - - -

 以下は私なりの偏見的野球解説者試論。

 勿論、解説者の中心的役割は、実績・経験に裏付けされた

   適格なコメントであり、専門的視点からの文字通りの解説で

   あることは言うまでもない。

 が、現実はどうもそれだけではない、というのが私なりの

   見方である。

 結論的にいえば、テレビ番組としての「差別化」である。

 野球の試合をアナウンサーによって中継・放映するだけでは、

 各テレビ局ともほとんど同一化、同質化は免れない。

 なんらかの特徴、他局との差別化を図るためになかば必然的に

   生まれたのが「解説者」の存在である。

 したがって、ある程度の「解説者」としての能力は必然としても

 差別化を図るための、キャラクター性、人気、話題性などが結構

 モノを言う世界。

 解説の中身云々もさりながら、如何に野球を面白く、興味の

  あるような内容を織り込み、場を盛り上げるか・・が「解説者」

  としてのもう1つ重要な役割である。・・というのが私なりの

   見方である。    如何なものであろうか。  

 

 

 

 

 

 

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名残りの桜

 「文化の香り」を感じさせない企業は、たとえ好業績を持続して

  挙げていても一流企業とはいえない、というのが私なりの

  勝手な自論である。

  勿論、(営利)企業である限り、一定の収益を確保・維持

     する事は企業存続の絶対条件ではあるが、それだけでは

     なんだか味気ない。

  変なたとえだが、ただ相撲が強いだけでは「名力士」として、

  人のこころに残らないのと同様である。

  逆に言えば、一流企業とか老舗と呼ばれるような企業は、

  大抵その企業独特の「文化の香り」とか「文化の風土」と

  いったものを漂わせているものである。

  地域社会との共生とか、地道な文化活動によって、

     自然と世間の共感を得、その積み重ねが企業に対する信頼、

     信用に繋がり、それこそが得難い無形の企業財産になる、

     のではなかろうか。

    - - -

  そんな事を何気に想い描いたきっかけは・・・

  過日、一寸したご縁で、ある有名企業主催の「園遊会」に

  出席させて頂いた事による。

  同社所有の広々とした庭園での園遊会、それも丁度桜が

     見頃の春に毎年行われているものである。

  地元の市長から、我々名も無き庶民まで、企業外部の人達も

  大勢招かれており、文字通り企業としての地域社会との共生、

  その一端を体感するこことなったわけである。

  お蔭で、平成最後の見事な桜を満喫させて頂いたという次第。

  当日撮った桜の写真でも添付しておきましょう。

    Dsc01411

    Dsc01410 

    Dsc01412

    Dsc01413 

 

 

   

 

 

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新しい時代へ

2019年4月1日  新年号発表  「令和」

 初の国書 万葉集出展との由。

 初春「令」月  気淑風「和」  梅披鏡前之粉  蘭薫珮後之香 

     - - -

 父  :  明治   大正   昭和

 母  :       大正   昭和   平成

 私  :            昭和   平成   令和

     - - -

 国書出展がまず画期的であった。

 一口に万葉集から~といっても、4500首程から多くの条件を

   クリアーする言葉を厳選するだけでも大変な事である。

   さらに今回は「令和」という言葉をそのままもってきたのではなく、

    一首(序)にある「令」と「和」をもって「令和」とした処に

  素直に凄さを感じた。

 ただ、「令和」以外の原案である、英弘(えいこう)、

   久化(きゅうか)広至(こうし)、万和(ばんな)、

   万保(ばんぽう)、が年号としては今1つ風格に欠けるように感じた。

 これでは有識者でなくても「令和」を推薦するのではないだろうか。

 この事から、巷間1部に、予め「令和」ありき・・とか、選定に至る

   プロセスが 不透明といった声が聞こえてくるのも解るような気がする。

          (あくまで個人的な感想)

     - - -

 今1つ、改めて感じた事は、 人は自らの時代を選べない、という

    いわば当たり前の事。

 先人からバトンを引き継ぎ、与えられた時代を生き、そして次の

   世代にそのバトンを引き継ぐ。 

   その原初的な当たり前の事の再確認であった。

 さて、来たる「令和」はどういう時代を形成するのだろうか。

 せめて気分を一新し、新たな時代を迎える事としたい。 

 

  

 

   

 

  

 

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おふくろの酒

   今月(3月)は、母の祥月である。

   十数年前、93歳で亡くなった。 大往生といえる。

   その晩年は、専ら31文字の歌を作ることが、楽しみの1つ

   だったようである。

   今、私の手元に、折々に歌を書き綴ったノートが何冊かある。

   これらの歌は、いわゆる「賞」を目指して技巧を練り、高めると

   いうようなものとは違い、あくまで日常の何気にこころに浮かぶ

   あれこれを、素直に31文字に表現したもの、と息子の私には

   解るのである。

   ノートのなかから、適当に2~3首 書き出しておく。

     久方に 生まれし土地を訪れば 脳裏に刻む古里は無し

     落葉にも 青き日があり 我もまた 心通じる夕暮れの道

     顔形 姿変れど思いは1つ 父を亡くした子らの心中

      - - -

   この母の若き日々に、酒を呑むイメージは全くなかった。

   事実、外でも家の中にあっても、たとえばお祝い事の席で

   父や我々息子は「適当」に飲んだが、母がお酒を口にする姿を

   見たことはない。

   因みに、母の父親(私からは母方の祖父)はいける口だった。

   それも、これ程旨そうに酒を呑む人はいないという位で、

   しかも今から思うと品のある酒であった。

   幼児の頃の私も面白がって酌をしたという記憶がある。

   その娘である、私の母にもその血が密かに流れていたので

   あろうか。

   晩年になってからだが、晩酌をするようになっていたから

   人生は面白い。

   その酒も、息子の私が言うのもなんだが、極めて端正というか、

   崩れることのない酒であった。

   「決まった盃」、と言っても大振りの湯飲み(蕎麦屋で出すような

   大振りの湯飲みで1合2尺程度の分量か)で、 毎晩1杯

   決まった量を、ゆっくりと時間を掛けて楽しむという酒である。

   飲む程に、顔が赤くなったり、饒舌になるというわけでもない。

   「今日も1日ご苦労様・・」という感じで晩酌を終える。

   私からみれば、こういう酒の呑み方もあるのか、とある種の

   酒飲みの究極の「境地」を教えられたような酒であった。

   母祥月の或る日、ふと思い出したのは

    「我 未だその境地に達せず」 のおふくろの酒。

 

 

 

 

 

 

 

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ほんのジョーク

   ある雑誌を読んでいて一寸笑ってしまうジョークに出くわした。

   偶には如何と、ほんのジョークです。

      - - -

   まずは、どこかで聞いた事があるような話から・・・。

     ある豪華客船が難破

     船長は、 オロオロと躊躇しているだけの乗客に対し。

     速やかに船から脱出して海に飛び込むよう

     各国の乗客に指示した。

       アメリカ人には

        「1番に飛び込めば、英雄になれますよ」

       イギリス人には

        「流石に紳士だ、と言われますよ」

       ドイツ人には

        「飛び込むのがこの船の規則です」

       イタリア人には

        「飛び込めば女性にもてますよ」

       そして次に日本人に指示しようとしたところ

         その日本人は、やおら携帯を取り出し、

         本社に電話、飛び込むかどうか指示を仰いだ。

            (一寸いじましい考えオチですね)

           - - -

    さて、次は少々風刺的なジョーク

       ある国の首相が、自らの肖像を印刷した切手を

       担当省から発行させた。

       ところが、この切手、封筒に付かないと苦情が殺到。

       調べてみると、その原因が解った。

       皆、肖像画の方に唾を付けていた・・・・。

          - - -

   もう1つ、決して私の好み・・というわけではありませんが。

      ある所に、好きなものを叫びながら飛び込むと

      それで一杯になるという不思議な湖があった。

        ドイツ人は、「ビール!」と叫んで飛び込んだ。

          すると湖はビールでいっぱいになった。

        フランス人は「ワイン!」と叫びながら飛び込んだ

          やはり湖はワインでいっぱいになった。

        日本人は「酒!」と叫んで飛び込んだ

          湖は酒でいっぱいになった。

        次に○○人が、歓び勇んで湖に向かって走り出した。

        が、途中で石につまずいてしまい、彼は

        「クソ!」と叫びながら湖に飛び込んだのである。

                          ・・・・・・ 了

 

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「ヒルズ」界隈散策

    夜の銀座・赤坂・六本木には、すっかりご縁のない

    清貧のご隠居生活。

    専ら都心に出る時は、精々、○○の××横町、

    △△酒場、といった処で、呑み仲間と軽く一杯と

    いう程度であるが、それはそれで至福の時間。

    それ以外は、森や林のなかを散策する静謐の日々である。

    が、過日珍しく、ヒルマの「六本木ヒルズ」界隈を散策した。

    メインは最上階近くにある美術館で「北斎」を観る事。

    今月は「顔真卿」「北斎」と観て廻ったが、どちらも平日で

    あったが「満員御礼」状態。

    我が日本、政府が言う程景気がいいとは思えないが、

    高齢化社会の進行に伴い、とりあえず 時間に余裕が

    出来た人が多くなってきた・・・という事にしておこう。

    さて、北斎を観た後は、国際文化会館、東京ミッドタウン、

    国立新美術館と 六本木界隈の散策。

    時には、ご隠居も大都会の風に吹かれることで、

    それなりに精神の刺激にはなる。

    その時撮った写真でも数葉添付しておく。

  Dsc01404_2

             六本木ヒルズ 手前はテレビ朝日

    Dsc01396
   Dsc01397                青山霊園 全容

 Dsc01402               新国立競技場 (建設中)

    Dsc01403               国立新美術館方面

   Dsc01405               国際文化会館 庭園

               井上薫 岩崎小弥太邸

  Dsc01406               同会館  設計 前川國男他

       同会館は今回初めて訪れたのだが、歴史的な観点からも

       観ておく価値はある。

                                      了。










 Dsc01402               新国立競技場 (建設中)

  


    Dsc01396
   Dsc01397                青山霊園 全容

  

 

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冬の夜のひとり語り

   「まあ、そこにお座り」 暇を持て余しているのでしょ?

   なに、忙しいですって、 まあそう言わずに

   どうせ他愛のないご隠居の戯れ話だが・・・

   古人曰く 「年寄の話と、熱い湯は よく利く」 ってね。

     - - -

   「どっこい、生きてるぜ!」 と粋がったところで、所詮

   いい歳をしたご隠居生活。

   大したことをして暮らしているわけでもありません。

   目下の心的生活の柱は、ネットで 「迷文」 否 「美文」を

   さらさらと気の赴くままに発信している事位ですかね。

   仲間内は、「微文」といっているようですがね。微妙ですね。

   いやなに、私だってそれ位のことは解っています。

   洒落ですよ、洒落ってものでございますよ。

   当落線上を行ったり来たり。

   文字通り、「線上に掛けるはなし」と言った処ですかね。

   映画しか娯楽の無かった時代の人にしか分からないオチでした。

   さて、真面目な話、1度位読んでも解らない「迷文」を

   馬鹿にしちゃいけません。

   もしかして、歳を経て再読したら、成る程そういう事も云えるな と

   改めて納得させられる事があるかもしれません。

   あるいはまた、読むたびに、新たな発見がある・・・そんな

   読み物もあるようです。

   いやなに、私の「迷文」とは、全く関係のない話なので

   あしからず。

   私だって、時には鋭い社会批評なんかを、そっと偲び

   込ませて、寝ている子起こすのも、私なりの戦術の妙で

   ございます。

   その戦術といったところで、ほんの遊びでございますが・・・。

   人間、歳をとっても「遊び心」を失くしてはいけませんや。

     - - -

   「遊び心」と言えば、昨今、どうもしっくりこないご時世ですね。

   なんだか世の中全体「遊び心」が希薄になってきているように

   思えて仕方ありません。

   確かに「遊び」そのものは、うんざりするほど氾濫して

   いるのですが、本当の「遊び心」と言ったらいいのでしょうか、 

   その違いを 的確に説明する自信はないのですが、

   なんとなくそう感じるのです。

   たかが「遊び」にレベルや知性、品の良さは関係なしという

   考えもありますが、それも一応認めた上で、たとえば昨今の

   テレビのバラエティ番組等のなんだか「押し売り」のような

   遊び、笑いが、本当の「遊び心」とどう結び付くのか、

   考え込んでしまう始末です。

   まあ、気分のままに笑っていればいいのかもしれませんが・・。

   遊びや笑いも時々の時代を反映する・・とは誰かの言葉ですが、

   今の遊びの実態も、現時代を反映したもの、と言えるのかも

   しれませんね。

     - - -

   昭和の時代には、今のように贅沢で豊富な「遊び」は、

   乏しかったとは思いますが、「遊び心」はそれなりにあったように

   思います。

   昭和歌謡にこんな歌が流行っていました。

   その歌詞を書き出してみます。

       ぜにのない奴は 

       俺んとこへこい

       俺もないけど 心配すんな

       みろよ 青い空 白い雲

       そのうち なんとかなるだろう

               ( 作詞  青島幸男 )

   品も知性の欠片もないただのコミックソングであり、

   作者もほんの思い付きの走り書き だったかもしれません。

   この歌が何故流行歌として売れたのであろうかと考えるに、

   結構その時代を反映した「文化」を感じさせたのですが

   如何なものでしょうか。

   特に、「みろよ 青い空~」と 歌詞が転調の処など、

   流行歌として押さえるところはしっかり押さえているでは

   ありませんか。

   このあたりに 作詞家の「詩を作ることが面白くて

   仕方がない」という純粋な「遊び心」を感じ取ったと

   いう次第です。

   尚余談として、この歌を歌っていた植木等は、無責任

   シリーズで一世風靡しましたが、本人はその私生活も

   含め極めて真面目な人だったようです。

   世の中の表層なんてそういうものかもしれませんね。

     - - -

       なんだか夜も深まり寒さが増してまいりました。

       最後に、遊びや笑いは、 人夫々の感性であり、

       様々な感想があっていいことでございます。

       そのことを申し上げて、今日の処はこの辺で

       失礼させて頂きます。        ご隠居

 

 

 

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「世界」を考える

     現実の世界について論じるわけではない。

     「世界」って何? と原初(初歩)的なレベルの話である。

       - -

     まず手許の辞書で、「言葉(言語)」の意味合いを

     拾ってみると次のようである。

       ひろく衆生の住む範囲

       宇宙・ありとあらゆるものを含む全体

       地球・地球上の人間社会の全体

       世の中・世間・俗世

       国・地・ 全ての国々を含む全地域

       ある特定の範囲・仲間     等々

     まあ「世界」というものは、こういうものかと

     ぼんやりとながらそのイメージは掴める。

       - - -

     が、 それらを踏まえての事だが、興味の続きで

     ある本を読んでいて、一寸面白い記述に出合った。

     私なりに簡単に要約すると次のようである。

       「世界」は、 「世」 と「界」からなるその総合である。

       「世」 は、 3世 即ち 「過去」「現在」【未来」  (時間軸)

       「界」 は、 4界 即ち 「東」「西」「南」「北」   (空間軸)

     過去から未来へと繋がる歴史的な流れと、地政学的な

     横(空間)の繋がりを包括する概念。

       - - -

     この包括の概念を踏まえた処に、真の「政治哲学」が

     生まれるのであろう。

     偉大なるリーダー(政治家)は、常に歴史を学び、

     未来を語る。 「世界」を見据えるという事は、

     そういうことなのであろう。

     私なりの一応の結語である。

 

 

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新年近況

    新たな年を迎えて 心機一転というわけでもなく

    改まった近況という程のことでもない。

    この処、柄にもなく、こ難しい本を立て続けに2~3冊

    読んでいる。

    どれも、この日本という国柄や独特の組織風土を

    考え込ませるような内容のものであり、

    考えようによっては、昨今の沖縄基地問題や、

    日産経営者問題、あるいは、オリンピック誘致に

    絡む問題など、なんだか、日本という風土から

    生まれた共通の要素が隠れているようにも思われてくる。

    少なくとも、日常見聞きする表面的な新聞記事や

    マスコミ報道からは、伺い知れない鋭い切り口の

    ものである。

    読後、なんだか暫くは、何も考えずに「ぼんやり」と

    していたいような「切ない」気分になっている。

    まあ、その気分を少し変えるために、

    それらの本の中から、少し皮肉っぽくて諧謔気味の

    数行をメモして置く。

      「  日本には 市民はいないんです。

         いるのは サラリーマンと主婦と

         自営業者だけ。

         みんなが好きなのは ”ほどほど” で。

         口癖は ”仕方ない” なんです    」

 

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初梅

    1月7日(月)・・今日が新年初出社の企業も多いのか、

    國立(くにたち)の谷保天満宮では、社員揃ってという

    グループを何組も見掛けた。

    さあ今年も頑張ろう!の心意気といった処なのであろう。

    新年、華やかな雰囲気の「現役企業人」を見るのも

    なかなかいいものである。

    本日も晴天の下、天満宮の梅林をゆっくりと廻った。

    と、あるところでおもわず立ち止まった。

    数多くの梅の木のうち、唯一本になんと小さな梅の花が

    密かに息づいていたのである。

    流石に梅は未だだろうと思っていただけに、おもわず

    見とれてしまったというわけである。

    文字通りの「初梅」である。

    成る程、年が明ければ「新春」とか「初春」というのは

    この事かと、理屈を超越して「ガッテン」した。

    この梅林の奥にあるベンチから、真白き冬の富士山が

    すっきりと見えた。

    これもまた新年早々の「初富士」。

    「こいつァ~春から・・・」 の初づくしであった。

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