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2009年5月

モノサシの裏表

    5月とはいえ真夏並みの暑い日がある。

   そんな折、とある公共施設を訪れることがあった。館内も我慢大会のような状態。

   それとなしに確認すると、冷房は6月からと決められている由。

   人間社会に規則は必要、我儘は大人の恥と一応納得のそぶりをみせるも、

   なんだか変!

   冷暖房の基準が、気温ではなしに期日というモノサシでルール化されている

   この可笑しさ。その訳に思い至る。(勿論独断ではあるけれど)

   ルールは、ルールを守らせる側の論理で作られるということである。

   守らせる側は、守る側の個々の判断、想い、有無を言わせる余地を極力

   無くすことが正の論理となる。

   したがって気温ではなく、期日となる。

   守らせる側が強権で有ればあるほどその傾向が強くなるのは至極当然。

   恐らく民間企業では、気温を基準にしているところが増えているのでは

   なかろうか。

   たかが暑さ寒さのことだが、されど・・・である。

   1つのモノサシでも凝視すると世の中が見えてくることがある。

   公共施設の責任者も、ルール通り対応している分には平穏無事ではあろうが

   独自の判断で、冷房を入れろと指示する人が増えるような世の中の方が

   ハッピーだと思うのだけれど・・・。

   (逆にそう暑くもない日でも、冷房をガンガン効かせて走っている電車も

   臨機応変、状況判断能力を失くした無人電車のようでございますネ)

   

素朴な疑問

   いよいよ裁判員制度がスタートする。

   賛否両論続く中での実施である。

   この導入の理由が今1つよく解からないままである。

   解かったようで解からないといった方が真実に近い。

   導入についてのほとんどの公式説明は、予め導入ありきで、

   導入すれば、こうなる、ああなるの羅列ばかりである。

   知りたいのは何故導入するかの根本である。

   今までの裁判はいかにも長期間を要した。本制度導入によって、

   短期化が計れる、と説明していた政府高官もいた。

   これは裁判員制度を含むシステム全体の見直しによるものであり。

   裁判員制度と、裁判期間との直接関連はどう考えても疑問である。

   世の中の常識では、「専門家が10日で出来る事でも、素人がやると

   20日掛かる」のである。

   何故、素人の民間人が参加すれば、裁判の短期化が進むのか?

   単純にして素朴な疑問のなかに、本制度の導入に至る強引とも言える

   理屈付けがあるような気がしている。

   実施後、その辺から問題噴出の予感がする。

躁と鬱の時代

   どうやら世の中は、躁と鬱の時代が交互に現れるようである。

  戦前から戦後暫くの間(といっても戦前をよく知っている年齢でもないが)

  鬱の時代が長く続いた。

  学生は、暗い喫茶店でニーチェや太宰を論じ、文庫本をポケットに旅に出た。

  戦後、高度成長からバブルへの過程で、それらは一掃されるように姿を消し、

  ダサイとか根暗とか称されて隅に追いやられた。

  その一方で、ウオークマンをシャカシャカさせて、わざと破れたジーパンを着こなす

  人々が、時代の先端をいく若者として脚光を浴びるようになった。

  いわゆる躁の時代である。

  ビジネスの世界も、いわゆる「熟考」型よりも「行動」派に移行し、体育会系の

  のりで突進するタイプが持てはやされる時代となった。

  そしてまた今日、なんだか時代は鬱の時代に移行しつつあるように思える。

  どちらが好いとか悪いとかではなく、時代とはそんな風にして移ろっていく

  ようである。

  勿論、時代の流れを躁とか鬱というレッテルで区分けすることの無意味を

  承知の上での、あくまで目の前に広がるぼんやりとした風景である。

明日に繋がる?

   最終ホールのパーパット。

   テレビの解説者がよく言うセリフに、

   「これを入れると明日に繋がる。外すと明日に引きずる」というやつです。

   我々は疑うこともなく、そうだと納得し結果を見守る。

   果して本当に明日に繋がるものなのですか?

   その日のパットの感触、トータルスコア等が、明日のプレーに何らかの影響を

   与えるのは、所詮人間が行うスポーツ、十分ありえることではある。

   ただ百戦錬磨のプロ選手、本当に最終ホールのパット如何が明日に

   繋がったり、引きずったりするものだろうか。

   たとえば統計的に最終ホールのスコアと翌日の成績との関連性が実証された

   ことがあるのだろうか。

   解説者の「明日に繋がる」のセリフを聞くたび気になりだした。

   ところが、ふとこれを別の視点で捉えると、なるほどと腑に落ちた。

   アマチュア程、明日に繋がったり、引きずったりすることはありません。

   それほど精魂こめていませんからね。

   ところが、プロは1打1打がそれこそ親の仇の入魂1打!

   ましていわんや最終ホールのパーパット。

   こう見てくると、なるほどの納得でございました。

   所詮繋がるか、引きずるかの一見他愛のない話ではありますが・・・。

      

チャレンジ

  過日桜満開の頃、谷中の霊園に行った折、訳あって徳川家のお墓を見て廻りました。

  「訳」とは、「きっかけ」といった程度の些細な事です。 

   実は、この4月から山岡荘八の「徳川家康」を読み始めています。

  すでに若くもない身にとっては無謀というか、

  かなり思い切ったチャレンジではあります。

  ご承知の通り、これは文庫本(平均450P)にして26冊あります。

    若い頃に一度読んでいるので再チャレンジということになります。

  今回は鉛筆で傍線を引きながらじっくり読むように心掛けていますが、これはあくまで

  言い訳です。

  果して読了ま1年かかるのか、2年になるのか、あるいは未読のままとなるのか

  本人にも分かりません。

  加齢に伴い、集中力や根気が乏しくなっている事や、やはり同じものだけでは

  飽きもきます。ほかの本にも手を出すという「浮気心」も生じます。

  何やかやで、今のところようやく4巻目に入ったところです。

  さてこの先如何になりましょうや。乞うご期待といったところで御座います。

曲言宣言

 直視直言の間違いではありません。

  ソレは世の一見偉そうな評論家や有識者にお任せします。

 あくまで曲視であり、曲言であります。

 だからといって心までひんまがっているわけではありません。

 どうかご安心下さい。

 でも、曲言だからといって油断してはいけません。

 時には、ど真ん中の直球が決まることがあるからご用心。

 作曲家は「曲がった家を作る人」という洒落があります。

 早速この世の出来事、心模様など曲視し、曲言していくことにします。

 そのうちすばらしい名曲が生まれるかもしれません。

             曲言宣言   ご隠居

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