« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2009年6月

指導者の力量

    ごく些細なことから話を始める。

    とある史跡現場で、小学生の見学グループと一緒になった。

    20名ずつ位のグループに分かれて、順次説明員の解説を聞いていた。

    最初のグループは、皆静かに解説を聞いており、列も整然としている。

    説明員はいかにもベテランらしい中年の女性であった。

    立派な小学生達だなと感心してそれとなく見ていると、次のグループが

    近づいてきた。

    と、そのグループは全く様子が違っていた。

    まず列がばらばらで、騒がしい集団。ほとんど解説も聞いていない。

    この落差に驚く。

    すぐになるほどコレか、とその理由に気付いた。

    申し訳ないが、説明員の声がか細く、ほとんど棒読み。

    何より、グループ全員に気が廻っていない。

    子供は正直なものである。

    これほどはっきりとした差を見せ付けられると、流石に考えてしまう。

    恐らく、各グループも恣意的に分けられてはいないであろう。

    それにしてこの差を生じさせるのである。

    たかだか30分程度の見学会だから、まあ大勢に影響はないとして、

    これが1年間続く担任の先生だとしたら・・・。

    一寸些細な話ではなくなってくる。

    ましてこれが一国のリーダーだとしたら・・と想いを拡げていくと

    些細なことも結構根が深いものがある。

    

    

    

    

国民の目線

    与野党共々のことであるが、最近よく国会議員から、「国民の目線」で

    政治を行う、とか極端な例では、今まで国民の目線が不足していたので

    今後は・・・、とかのセリフに接することが多い。

    国民にとって誠に有難い話ではある。 が、

    それならお聞きするが、一体「国民の目線」以外の目線て何?

    国民にもわかる言葉で、大きな声で教えて貰いたい。

    そもそも改まって言われる「国民の目線」て何?

    議員の数ほど、様々な解釈が出てきそうな予感がする。

    (選挙真近に控え、国民の目線=迎合という解釈をする人も

    いたりして・・・。)

    誤解を恐れずに言えば、

    いまさら「国民の目線」で、なんて言ってほしくない。

    「政治家としての目線」でいいではないか。

    但し、確固たる信念を持った本物の政治家としての目線である!

    今時、「政治家の目線」なんて言えば袋叩きに遭いそうな

    風潮がある。それほど政治家が信頼されていない証左でもある。

    如何なものであろうか。

         

3割の重み

    以前、何かの本で「組織は、その構成の3割を変えることで、

    組織全体が変わる」と言う主旨のことを読んだことがある。

    1割が変わっても、期待するほどの効果は出ないが、3割のラインを

    超えると加速度的に効果が増すということであった。

    組織改革の要諦として記憶にあったものである。

    

    その事でふと野球の事情に想いが繫がった。

    たとえば、イチローのマリナーズ。

    実際にプレーする9名のうち、1人が際立って活躍しても

    常勝チームにはなりにくい。

    また、たとえば低迷チームが、てこ入れのために鳴り物入りで

    大物助っ人選手を獲得しても、思った程の成果がでないと

    いうことがよくある。

    やはり組織(チーム)は、3割のラインなのである。

    逆に、3割の選手が見違えるように成長し、活躍するように

    なったチームは確実に結果が出る。

    これはその3割の選手の実績によることもあるが、他の選手に

    与える影響も無視できない。

    つまり3割の色で、チーム全体の色(雰囲気・ムード)が変わると

    いうことなのであろう。3割の力である。

    野球に限らず、あらゆる組織もこの「3割理論」は

    結構生きているのかもしれない。

    

    

    

形影相伴う

      影の形に随うが如し。  とは法華経にある由。

      早朝5時 1日の始まりの太陽で、悠然と伸びやかな影を伴う。

      くれぐれも「斜陽」と言うなかれ。

      陽はこれから昇る。

      本人、影の「自画像」を見て、

      これほど「メタボ」ではない筈と思いつつも、

      影は常に真実を映す。の声あり。04110013

受け狙いの副作用

    現在社会、それなりに泳いでいくためには、受け狙いを考慮した

    発想なり、行動は不可避であろう。

    商品開発、広告、IR,、その他人気商売しかりである。

    受け狙いを、悪者扱いするつもりはない。

    ただ、あらゆる分野において「受け狙い」だけがメルクマールとして

    まかり通るような世の中は考え物である。

    受け狙いに比重が掛かりすぎると、レベルダウンする事は、

    政治、メディアの盛衰を見ていれば経験的に解かることである。

    政治家の世襲問題、世襲そのものが悪いわけではない。

    親の家業を継いでなにが悪い!  その通りである。

    問題は「世襲」そのものにあるのではない。

    プロゴルファーの息子が、プロになっても一向に構わない。

    なぜなら、二世だからといって特別に「ハンデ」を貰うわけでもなく

    公正、平等なルールの下で戦うからである。

    ところが世襲政治家の場合、選挙というルールにおいて、

    予め特別ハンデを貰って選挙戦を戦うようなところに本質的な

    問題がある。

    世襲そのものの是非ではなく、公正、公平な選挙ルールの

    見直しが、再検討の本筋である。

    受け狙いや、パフォーマンスの要素を一切排除したところで

    この問題を捉えれば、問題の本質が明確になり、案外容易に

    解決の答案が見つかる筈である。

   

    

ある風景その2

    ふるさとの風景は、我が母の胎内のように心休まるところ、

    と、詠んだ人がいた。

    正しく、我がふるさと「京都」の風情は、四季折々に

    深い趣で迎えてくれる。

    嵯峨野・嵐山の景観は、いかにも絵葉書的であるが、

    時には激しく、時には官能的に、またある時には春日和のような

    のどやかさで、目の前に拡がる。

    あたかも我が心を映す鏡のように。

    02060002

              渡月橋遠景                  

ある風景その1

    カメラアングル的に、いかにも調和のとれた風景があるものである。

    下の写真は、そういう意味からも気に入りの1枚である。

    家の近くの公園。散歩コースでの1葉である。

    早朝散歩の折、朝日に輝くマンション群が、目の前の池に映るその

    バランスの妙が面白く、偶々持っていたデジタルカメラに収めた。

    池周辺の雰囲気が、一寸ヨーロッパの古い都市の風情というのは

    やや自画自賛か。

   05230011

      

千載一遇

    ある新聞の「今日の運勢」をなにげなく見ると、該当するところに

    「今日のこの日は、千載一遇の尊い日」とあった。

    千載一遇の・・・と言われると、流石に読み流すわけにはいかない。

    運勢に、日々左右されるほどの思い入れは持ち合わせていないものの

    なんといっても「千載一遇」である。

    勿論、運勢が当たるかどうかではないのである。

    今日という日が、「千載一遇の尊い日」かもしれないと思って、立ち向かうと

    ぼんやりと無為に過ごすことが、マズイことに思えてくるから不思議である。

    結果として、何時ものように平凡な1日であったとしても、それはそれである。

    日頃、なんということのない日々を過ごしがちなわが身を振り返ると、

    「千載一遇の尊い日」は、深い自省を促す言葉でもあった。

    

    

早朝の散歩

        05230003

    夜明け前に家を出て、近くの遊歩道を1時間ばかり散歩することがある。

    途中で東の空が明るくなり始め太陽が顔を覗かせる。

    荘厳の一瞬である。自然は、日々かくも偉大なことを静かに行っている。

   05230004

   上の写真は2009年 元旦の初日の出。

夜汽車その2

   まだ新幹線などなかった頃の話である。

   ある人生の進路が決まりかねない事のために、

   夜行寝台列車で上京したことがあった。

   当時の寝台車は常に満席の状態である。

   3段ベッドの上段にやれやれと横たわり、周りが静かになった頃、

   突然、仕切りカーテンの隙間から手が伸びてきた。

   そこにはチョコレートが握られていた。

   確か向かいの上段は、同じ年頃の若い女性の筈であった。

   一瞬の動揺の後、そのチョコレートを受け取ることにした。

   二人とも無言のままであった。

   そのチョコレートをすぐに食べたのか、またそれがどのような味だったのか

   今は何も覚えていない。

   まして彼女が、偶々乗り合わせた見ず知らずの男に、どのような気持ちで、

   ためらいと勇気のハザマで渡してくれたのか、今となっては知る由もない。

   夜汽車に纏わる、チョコレートのようにほろ苦い思い出の一片である。

   

   

夜汽車その1

   まだ新幹線などなかった頃の話である。

   当時の学生は特急など乗ることもなく、当たり前のように夜行列車を利用した。

   そんな時代であった。

   京都から、各駅停車の夜行列車で東京に行ったことがある。

   当時世間で評判になっていた新聞小説、三浦綾子の「氷点」を買い求めて

   四角い箱のような3等車の固い椅子に座った。

   結構シリアスな内容の小説が、ベストセラーになる。そんな時代でもあった。

   薄暗い車内でそれを読み始め、時折止まる駅で顔を上げ、周りを見回す

   以外は小説の中に理没し、結局早朝東京に着くまでにその本を読み切った。

   朝の光は眩しかったが、一睡もしていない割りに鈍い疲れはなかった。

   その日、東京で出合った人が、まだその小説を読んでいないというので、

   よかったらといって差し上げた。

   それだけの話であるが、夜汽車に纏わる心に残る思い出の一片である。

右か左か

    たとえば党首会談でかくも議論がかみ合わないのは何故か?

    テレビ中継という映像を見ていて、瞬時に気が付いた。

    と言っても、論理的に辻褄が合うような話ではない。

    強いて言えば、抽象画のようなものである。

    感性で受け止めて頂くしかない。

    

    例えば、向こうの方からこちらに向かって人が歩いてくる。

    A党首は自信をもって「右」の方から人が歩いてきたと主張する。

    これに対し、B党首は猛烈に反論、絶対「左」から来たと主張する。

    右だ、左だと声高の応酬が始まる。それぞれの野次の中で。

    何故そういう事になるのか?

    簡単な話、敵対的に向かい合って座っているからである。

    双方とも絶対自分の方が正しいと思って一歩も譲らない。

    引くに引けない。

    確かに双方とも間違ったことを言っているわけではないが、

    なんだか変という事に気が付いていない。

    慣例だから・・・、欧米でもこうだから・・・なのか?

    二人の党首とも、同じ「国民」の方向に向いて座って、思うところを切々と

    話せば、大概のことは国民も理解してくれるのに・・・。

   

    

政治家の責務

   政治家の最重要責務が、国民の安全と生活の保持という事であるならば、

   雇用(失業者)対策は、相当優先順位の高い政策であるべきである。

   時々の政府の失業者対策の中身は、その政府のレベルを表す指標にも成りうる。

   したがってその対策に無策、あるいは後手後手に廻るのは論外となる。

   

   古代エジプトにおいて、ピラミッドは当時の雇用対策だったという説がある。

   又、秀吉の朝鮮出兵も、国内での戦(いくさ)が一段落した時代情勢のなかで、

   仕事(?)を失くした大量の侍たちの新規分野という背景も無視しえない。

   いづれの時代においても、為政者はその雇用政策で政治生命が問われる。

   21世紀の今日、まさか雇用政策のために戦争を画策することもないだろうが、

   数年しか、持たないような目先の箱物行政の繰り返しでは、最早無策の領域

   といえる。

   ここらで目の覚めるような手を打ってくれるような政治家が現れないもの

   だろうか。

   「政府が政策に力を入れれば入れるほど、国民はその対策に負われる」

   そんなことのないように願いたいものである。

   

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »