« 2010年5月 | トップページ | 2010年7月 »

2010年6月

チクリと申す

   大勢に流されていれば安寧なるものを、あえてなんとなく

   引っかかっていることなどを少々。

   選挙公約(マニフェスト)を参考にして「清き1票」を投じる。 

   極く当たり前の常道である。

   マニフェストの意義を踏まえた上での話であるが、

   選挙公約(マニフェスト)は、こうする、ああする、あるいはこうしたい、

   ああしたい、のいわば各党の計画書である。

   国民にとって必要な計画書ではあるが、所詮「計画」の書であることを

   踏まえておく必要がある。

   多くの国会議員のホームページを詳細に検証しているある人が

   こんなことを言っていた。

   本来は選挙民に対する「活動報告」の主旨で作られている筈が、

   「選挙ポスター」要素しかないものが驚くほど多いという。

   なかには世論的に関心の高い法案について、自らの考えと活動に

   ついて詳細に触れてあるものもあるが、それらは当然のことながら

   報告できる実績のある議員だけである。

   大半は、後援者の集まり、催しに顔を出した、○○委員会に出席

   した等々というので占めている。

   さらに面白い傾向として、自らの「公約・指針」は党の「メモ」を参考に

   するためか、ほとんどレベルに差はないが、「実績・成果」となると

   格差が歴然とするらしい。

 

   当然とはいえ、「計画」段階では能力差はあまり表面化しないが

   「実績」段階では隠し果せないということである。

   大切なことは「計画」の出来が好い悪いの評価ではなく、

   その計画が実行できるかどうかの「能力」の評価である。

   選挙もそうでないと、「計画倒れ」のリスクを国民が負うことになる。

   ついでにもう1つ野球賭博の話。

      決して野球賭博を是認したり、相撲協会を擁護する

      立場ではないことを強調した上でのことであるが、

      世はまさに、野球賭博=相撲界の様相一色で袋叩き状態。

      少し考えればわかることだが、

      野球賭博が、「相撲界」だけをお客さんにして

      裏家業(?)が成り立っている筈がない。と見るのが

      常識的ではないだろうか。

      誰だって袋叩きする方に廻っておきたいというのが

      世の常だが、そんな流れとは別に、静かに様子を

      伺ってじっとおとなしくしている他の華やかな業界の1つや

      2つあるのではと勝手に想像してしまう。

      あくまで清貧に身を置く一庶民の「勘」というやつだが・・・。

      

   

   

   

   

    

トロッコ列車

   世の中全てが合理化、高度化、スピード化に血眼になっているご時勢に、

   トロッコ列車というのは、それに背を向け悠然と一定の存在感を

   有しているのは示唆的である。

   物理・工学的視点ではなく、あくまで社会学的関心である。

   元々貨車であったトロッコを人間の乗り物としてイメージチェンジ化に

   成功した発想の転換も捨て難い。

   景観をゆっくり見てもらうために普通列車のスピードを落とすだけでは

   独立した「商品」にはならない。いままでの商品の「おまけ」に過ぎない。

   トロッコ列車はいままでの延長線にありながら、「トロッコ」という異質な

   ものを加味することで「新商品」としての地位を得た。

   その商品の売りは、「人間のふるさと(原点)回帰」ということに

   なりそうである。 この種の商品は、市場を席捲することはないが

   いつの時代においても一定の地位を確保するということでは

   ないだろうか。

   

   電子図書の出現によって、従来の書籍の影響についてあれこれ議論

   されているが、そう簡単にペーパーレスの時代がくるとも思えない。

   ただ今のような出版システム(たとえば大量出版、大量在庫、新版

   裁断)がこれを契機として抜本的に見直され、劇的な淘汰の時代が

   くるかもしれない。

   生き残りのためには「トロッコ列車」の社会学的考察から1つぐらい

   ヒントがでてくるかもしれない。

   

   

   

   

   

   

信を問われる

  「国民に信を問う」というのは昨今よく耳にする言葉である。

  民主主義社会において、国民に『信」を問う、即ち信任するかどうかを

  選挙によって問うことは極く当たり前過ぎて深く考えることもあまりないが、

  我々国民にとってその問いにどう応じるかは、考えれば考えるほど

  悩ましい問題でもある。

  『信」を問われ「真」を応えることはそんなに容易なことではない。

  その割りに、案外安易な寄せ集めの情報、即席に作られた資料や、

  時々の流れ(風)によって国民の声が形成されていることが多いのでは

  ないだろうか。

  ただ、国民の声が必ずしも正しくないと言ってしまえば、民主主義そのもの

  が存立しなくなる。この問題の悩ましい所以である。

  予めなにを食べるか(支持政党)が決まっていてレストランに入る人は

  結果に対して割り切れるが、レストランに入ってから決めようとする人は、

  的確な食べ物のj情報がないままに、イメージで注文したりすると

  とんでもないシロモノが出てきたりする事が有り得る。

  極端な場合、かのヒットラーも一応国民の信を得てトップの座に

  付いたことを想起させられる。

  「国民に信を問う」 誠に美しい言葉だが、

  問われる国民にとっては結構難しい試験でもある。

  その試験日も近い。

 

 

ボーダーライン

   人生は『賭け」で満ち溢れている。

   少し荒っぽい議論になるが、サッカーなら許されて、何故野球なら

   駄目なのか?  サッカー籤と野球賭博の話である。

   

   サッカーや野球観戦は問題にされなくて、何故相撲なら駄目なのか?

   ある業界筋の人の観戦の話である。

   テレビに映ることが問題なら、野球だってバックネット裏正面の観客は

   常に小さいながらも画面に映っている。

   つくづくと、そのボーダーラインは悩ましい。

   力士はギャンブルに手を出すべきでないとコメントする人がいた。

   恐らくギャンブルを悪質なイメージで捉えておられるのであろう。

   競馬や競輪も立派(?)な公営『ギャンブル」である。

   白昼堂々その『ギャンブル」をテレビで中継している。

   野球賭博を是認しているのではない。

   力士だってギャンブルの1つや2つやってもいいのではないか。

   極端に走る言論こそ要注意。というだけである。

   これはいい、これは駄目の境界線は実はその中身、行為ではなく

   公(おおやけ)が認めているか、認めていないかだけの話。

   因みに公営ギャンブルの胴元(?)は次の通りである。

       競馬          農林水産省

       競艇          国土交通省

       競輪          経済産業省

       オートレース     経済産業省

       スポーツ振興籤   文部科学省

       宝くじ         総務省

    胴元の収入(税収)は相当と聞いている。

    要するにギャンブルについてのボーダーラインは、公が認めたものは 

    やってよろしい、認めていないものを陰でこそこそやるのはまかり

    ならんというだけの単純な話かもしれない。

    賭けの対象も公に決めてもらっていることを少し我慢すれば・・。

    因みにこの私は未だ馬券も買った経験がない門外漢、あしからず。

    

   

   

   

フライングスタート

   極く些細な事であるが、何時の頃からかテレビ番組の開始時間が、

   たとえば7;54分~からという落ち着きのない編成になってきている事に

   違和感を覚えている。

   極端な例では、夕方の5時台の番組は大半の民放があたかも『談合」を

   したかのように4;53分スタートとなっている。

   ある局が1分でも早くスタートさせる事でその時間帯のチャンネル主導権

   を確保したいという意味合いから始まったことであろう。

   対抗上各局が追随する形となり、視聴率競争のなれの果ての現象と

   なっていかにも変則的な時間編成が形成された。

   スポーツの世界ではこれを『フライング」として一定のルールを規定し

   場合により失格のケースもあるようにしている。

   当事者にとっては必死に知恵を絞って対抗し合っているのであろうが、

   部外者の立場からは、なんともつまらない競争をしているものだと

   思ってしまう。

   結局他局も追随して、結果的に同一ラインでのスタートということに

   なれば視聴率効果はゼロ。さらに他を出し抜いてとフライング競争は

   エスカレートするばかりである。

   一方で、フライングスタートすることで実際に視聴率UPの実績が

   顕著にでるということであれば、我々視聴者も所詮その程度の

   レベルということになる。

   視聴率は番組の中身(内容)如何。各局に番組を提供する意義、 

   使命感、達成感を持ってもらうためには視聴者も共存者である。

再出発

   時節柄、新内閣発足について一言。

   支持率がV字回復とのことであるが、多くの人がすでにコメントして

   いるように実績評価でもなく、まだ新たな政策に対する信任評価でも

   ないことは当事者達も実感していることであろう。

   恐らく支持率UP事由の大半は、なんとかしろ、どうにかしてくれの

   国民のこころからの叫びの裏返しと受け止めるべきである。

   それにどう応えていくかはこれからの問題である。

   無党派の立場からは、一方の野党(自民党)もただ足を引っ張る

   だけでなく、まずはお手並み拝見と大人の対応をする位が

   好みには合う。

   相手の弱みを付くのは勝利への鉄則であり、『政治とカネ」を

   蒸し返して追求することも分らないではないが、支持者は別として、

   それだけで無党派層のこころを捉えることができるかどうかは

   疑問である。

   民主党がずっこけても『昔ながら」の自民党のままでは復活は

   難しい。自民党も如何に生まれ変わるかが問われている。

   いづれにしろ、発足した新内閣、国民は期待半分、不安半分で

   見守っているというのが正直なところであろう。

   党派を超えたところで、なんとか『日本」を立ち直らせて欲しいと

   いう願いは理屈抜きである。

   

時には直視

   認めたくもないが、どうやらわが国はすでに二流国になってしまった

   のではないだろうか。

   漫然とだが、我々は高度成長を経て国際社会において先頭集団を

   走っているという認識のもとに過ごしてきたが、どうやらこのところの

   現実は先頭集団から相当離され、二番手、三番手グループのなかに

   紛れていることに気付かされる。

   そういえば、昨今のサミットでも我が代表はなんだか肩身の狭い雰囲気

   で写真の隅に収まっておられる。

   福田、安倍、麻生、鳩山・・・と「国内」では怱々たるエース級を送り出して

   いるのだが、どうやら名門の『御曹司」ではラフプレーが常態の国際試合

   では通用しないのであろうか。

   なんだかあるスポーツチームを連想してしまう。

   没落した旧家の如く、祭りでは頑張って相変わらず多額の寄付を

   出しているのだが・・・。

   米国有識者アンケートで、望ましいパートナーとして日本は中国を

   下回ったと報じていた、20数年振りとのことである。

   丁度そのタイミングで総理辞任のニュースが国際社会を飛び交う。

   同じ(政治の)土壌に、いくら違う種類の花を咲かせようとしても

   土壌が悪ければ根のほうから腐ってしまう。

   そのことをここ10年の間に身に浸みた。

   いつまでも足の引っ張り合いをしていては、益々先頭集団に

   置いていかれる。

   今大切なことは自らも泥を被る覚悟の『土壌改良」である。

   党利党略の議論からは良いアイデアは生まれない。

   

   

   

   

« 2010年5月 | トップページ | 2010年7月 »