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2010年7月

ボーダーライン その2

   6月中頃に公営ギャンブルに絡めて賭博のボーダーラインについて

   触れたことがあるが、最近になってその境界論が様々なところで

   議論になっているのが目に付く。

   調子に乗るわけではないが、これから問題になりそうなのが、

   公営ギャンブル収益金(俗に言うテラ銭)の使途である。

   実際上は、どんぶり勘定で特定して使途を明確にはできないかも

   しれないが、少なくとも運営費、管理費等が対象になる。

  

   根拠のないままに無責任なことは言いたくないが、

   もしかしたら、詳細に知れば知るほど唖然とするようなことがでてくる 

   のではないかというのが私の予感である。あくまで予感(!)です。

   たとえば、ジャンボ宝くじのテレビコマーシャルのカネの使いっぷり。

   あれは民間であれば相当高収益、優良企業のレベルである。

   たかだた「宝くじ」(公営ギャンブルという範疇に入る)の宣伝の域を

   超えている。

   人間、目の前に金がどんどん入ってくれば、色々なものに使いたがる

   のは「サガ」というものである。

   さあわたしの予感、果して杞憂であろうか。

   

   

柳の下

   柳の下といっても幽霊ではなく、強いて言えばドジョウの話である。

   過日、日本のプロ野球にルイスという白人の捕手がいたことに触れたが

   実はもう1人いたことが解った。

   何気に「山口 瞳」の短編小説を読んでいて、なんとそこにテスタという

   外人捕手の話が出てきたのである。

   氏の道楽は、酒、将棋、競馬、そして野球なのである。

   その氏がテスタ捕手のことを書いているのである。

   念のため調べてみた。確かにいたのである。流石である。

   ニック・テスタ  毎日大映オリオンズ  1962年とある。

   私は全く知らない、初めて聞く名前であった。

   日本のプロ野球も年を経て「歴史」を有するところまできた。

   様々な外人選手が日本でプレーをしているのである。

   テスタという名前も記録として書き留めておくことにする。

   私が知らないだけで、そのうち3人目、4人目と明らかになって

   くるかもしれない。その時はその時である。

      

水泳と英会話

   孫たちが水泳教室に通っている。

   級が進むにつれ平泳ぎから、クロール。そしてバタフライまで習うらしい。

   そのことを聞いて、ふとあることに思い至った。

   我々世代の大半は学生時代長年に亘り英語を学ぶが、その割に

   会話が出来ない。私もその1人で、単語が分かってもしゃべりが

   聞き取れない。聞き取れないということは会話が成立しないという

   ことになる。

   その理由は長年「英語」は、やったが、「英会話」はやっていないという

   極めて単純なことに思い至ったわけである。

   長年水泳をやって平泳ぎなら幾らでも泳げる人が、クロールでなら

   10メートルも泳ぐことが出来なくて悔しい思いをする、丁度それと

   同じ感覚ではないだろうか。

   だからといって、年齢を経てからクロールをマスターしようとしても

   なかなかうまくいかない。なまじ(平泳ぎで)泳げることが邪魔する

   のであろう。

   それより、いままで全く泳げなかった人がクロールに挑戦する方が

   早くマスターする傾向がある。

   丁度英会話にもそんなところがあるのではないだろうか。

   全く英語を学んだことのない子供ほど早く会話に馴染むものである。

   なんとも「おとな」にとっては悩ましい話ではある。

「奇案」・続編

   このブログで恥ずかしげに「奇案」を書いたところ、早速ある友人から

   個人的ルートで反論あり。

   要約すれば、恐れ多くも国会議員を無作為抽出とは何事か、という

   主旨である。

   至極最もなご意見である。少なくとも良識ある常識人であれば、そう

   考えるのが真っ当というものであろう。

   ただ、折込済みの当方としては、全面降伏では話が面白くならない。

   そこで少し反抗の狼煙を挙げてみた。

   たとえば無作為抽出の平均的日本人を次のようなイメージで

   捉えたとする。

   勤続15年位の中間管理職(サラリーマン)、商店街の小売店主、

   20年くらいのベテラン主婦。等のグループを想定する。

   一方、今回自ら手を挙げて立候補した、有名人、タレント候補

  (大半が落選したので、全員議員代表とはならないが)で思いつくままに

   選出した人達で構成するグループを想定する。

   この2つのグループでたとえば「消費税」「基地問題」について

   グループ討議したとする。

   果して討議のレベルはどうだろうか。

   (当選を果たしたあの有名人議員が如何に説得力ある自説を

   開陳するのか考えただけでワクワクしてくるではないか)

   推されていやいや付いたポストでも、いざその立場になれば

   真面目に頑張るのが日本人の徳性である。

   裁判員制度、各地のPTA役員などを見ると明らかである。

   無作為に抽出されたグループの人達が常に適格性で劣ると

   いえるであろうか。

   というやや変化球の提示を試みた。

   ここから先は各人の想像の世界である。

   少なくとも。この「論争」に関してのみいい勝負に持ち込めそうである。

   そのことを喜んでいいのかどうかは別問題である。

   私だって民主主義における選挙の重み位はわかっているつもりである。

   されど・・・ 苦渋の「奇案」なのである。

          あえて「奇案」という所以でもある。

   

   

   

   

   

   

   

命あるもの

   7月20日

   私事であるが、我が家の飼い犬、「ラブ」(ヨークシャテリア)が

   息を引き取った。静かな死であった。

   先週位から、動物病院の先生から、「寿命」だからと言われていた。

   17年6ヶ月もの長い間、一緒に暮らしたことになる。

   立派な大往生だったと言ってやりたい。

   飼い犬によって、「命あるもの、いつかは死を迎える」ことを

   教えられるというのは本当である。

   小型犬ではあるが、やはりいなくなるとなんだか家の中が

   ガラーンとなったような気がする。

   今も部屋の隅にじっとうずくまっているような気もする。

   「ラブ!」 長い間ありがとう、そしてお疲れ様でした。 合掌。

奇案・妙案

   奇案こそ妙案なり。

   誰もが疑問に思わないような案に、妙案というのは少ない。

   そこで誰もがなんらかの形で引っかかりを持っている参議院制度に

   ついて一市民の思案あれこれである。

   先日の参議院選挙の費用(税金)は、400億以上とのことである。

   民主主義維持コストと言う面では、あれこれ言うこともない。

   視点を変えて裸の王様の子供を演じたい。

   選挙に掛かる費用対効果なんて野暮なことは言わない。

   参議院の選挙そのものを止めてしまえば!

   以下は一市民のほんの思い付きである。

   全国から100名無作為抽出し、(一定の条件のもと)一定期間

   (2年なら2年間)議員を委託するのである。

   年2千万位の報酬を出すことにより、自営、社員と問わず原則

   承認してもらう。(会社員は出向扱いとしてもよい)

   要は、裁判員制度の応用編である。

   裁判員だって、人間の生死(死刑)について審議する。

   裁判員が出来て、議員が出来ない筈がない。(と割り切るのである)

   そういえば、裁判員制度導入の時だって、専門バカの傾向が

   あるので市民のナマの声、感覚を受け入れたいと言われて

   いたではないか。

   この案の最大のメリットは、選ばれた議員は選挙対策を一切考える

   必要はないという事である。後援会、地元への挨拶、資金つくり等に

   一切頭を悩ませることなく、純粋に{政治」一本に絞れる事。

   そもそも政治にはカネが掛かるといっているのは、「選挙対策費」が

   掛かるということであり、選挙がないのだから、カネを使うことも

   ほとんどない。極端に言えば、自分の名前を売り込む必要すらない。

   彼ら議員の役割は、衆議院から廻ってきた法案の審議、これ1本

   に割り切り、審議権(差し戻し権)を有することとする。

   その代り、各議員の発言、賛否、は詳細に公表し、適宜説明の

   義務等により、無責任な発言や行為はできないよう、予め制度化

   しておく。

   また国費で秘書を数名付け、国会審議等ない時は、適宜必要な

   勉強ができるよう環境の整備を図り、常時有識者や専門家の

   意見、講義、が聴けるよう可能な限りの体制をつくる。

  

   さてこの奇案を採用したとすればどうなるか

   驚くべきコスト削減がまず可能になる。

   また。もし政治レベル(法案成立、中身、審議内容等)がいままでと

   大きくレベルダウンしないとすれば、今まで莫大なコストとエネルギー

   を使ってなにをしてきたのかという検証にもなる。

   さらにこの案を検討するだけで、現議員の目の色、顔つきが違って

   くるという副次的効果も期待できる。

   実際実施して上手くいかなかったとしても、それではということで

   一院制への移行がスムーズにいくという腹黒い思惑もある。

   現状の参議院は、極端な言い方をすれば、各政党で決まった

   政党案を、衆院、参院で各々賛否をするだけに市民には見えるため、

   どうしても参議院の存在論が常に浮上してしまう。

    (党議拘束というしばりがありそうならざるを得ないという面もある)

   いづれにしろ、小手先の定員削減といった誰もが思いつくような

   凡案(それすらなかなか実行できない)より、この際ドラマチックで

   夏向きにゾクゾクするような奇案なぞ如何であろうか。

   それとも酷暑が続く真夏の夜の夢なのか・・・。

    

本(ほん)の一言

   ある雑誌の今月号をパラパラと捲っていて、ふと気に止まった一言を

   メモ風に書き出してみた。

   健康法は、「こだわらない、悩まない、流れにまかせる」

     関口 宏氏     (業界生き残り法!かと一瞬思わせる一言)

   

   「僕は音楽高校ではなく、新宿高校に行ったからこそ、音楽を仕事と

   することになったと確信している。

   いろいろな奴がいた。いろいろなものが醸成された。

   そこなのだ、表現者にとって大切なのは」

     池辺 晋一郎氏   (正しく、そこなんです、そこなんですよね)

   「はやぶさ(小惑星探査機)は、根性で翔んでくれました」

     川口 淳一郎氏   (こんなセリフをさらっと言える人がもっと

                  増えたら、世の中もっと楽しくなるのだが・・)

   「牛はわしらの家族だった」

     宮崎口蹄疫渦 現地ルポ (百、千の説明よりグサリと突き刺さる)

   本(ほん)の一言で、その人の全体が伝わり、生き様まで明らかにする

   ことがある。言葉は深くて重い。

   

川で泳ぐ

   「海の日」に川の話である。

   我々が小さい頃、川で泳ぐことは珍しいことでもなかった。

   私も、川下りで有名な、京都・保津川で泳いでいたことを思い出す。

   相当の急流だが、比較的川幅のあるゆったりした場所を選ぶのだが、

   川は川である。

   そこで自然と多くの知恵を身に付けたような気がする。

   水の色が変わっているところ(濃いグリーン色)は、水底が深く、

   水温が冷たく危険であること、向こう岸まで泳ぐためには、直接その

   方向に向かって泳ぐのではなく、川上斜め前方に向かって必死に

   泳いでようやく向こう岸に辿りつくこと。それでも子供の力では、

   2~3メートルは流されて辿り着く。 また岩の上から川に向かって

   飛び込むのであるが、夫々分に応じた高さの岩をしっかりと選んでいる。

   恐怖心は必ずしもマイナス面ばかりではなく、自制心なり、身の丈に

   あった行動をとらせる自然の仕組みなのかもしれない。

   

   ところで昨今、結構20代や30代の男性が水難事故にあっている

   のが目立つ。

   彼らの多くは、小さい頃に海や川の恐ろしさを体験しないままに

   大人になっているということもあるのではないだろうか。

   プールと自然のなかでの泳ぎとは、全然違うということは

   経験しないと分からないものである。

   だからといって今の子供たちに川で泳ぐことを

   薦めることはできない。

   世相、環境、人々の考え方、の変化である。

   それに大半が遊泳禁止という現実。

   それもこれも時代の流れというものである。

 

   海の日の、水にまつわる思い出の1ページである。

歌の本意

          わが庭の竹の林にみどりこき

                杉は生ふれど松梅はなき

    これは昭和天皇の御製(昭和62年)である。

   この歌は、「お印」を知っていないとその主旨が掴めないと

   ある人から教えられた。

   無教養な私は、「掴めない」方に属する。

   さればと言うことで調べてみた。

   なるほどそういう事かと改めて感得した。

   「お印」とは各々皇族の身の回りの品に用いる微章とのことである。

   そういえば以前にもどこかで聞いたことがある。

     その「お印」が夫々次のようである。

           昭和天皇     若竹        

           秩父宮      若松

           高松宮      若梅

           三笠宮      若杉

    なるほどこれによって歌の本意がより切実に伝わる。

   ところで、我が夫婦もそのうち孫たちから

   「お印」を賜ることになるかもしれない。

      祖父   枯れススキ

             (因みに現状白髪気味ながら髪は健在 あしからず)

      祖母   乳母桜

             (因みに現状テニス三昧、あしからず)

   我が庶民の家庭では頃合というものだが、

   当分元気で、若さ(!)を維持し、折角の「お印」は、

   日本人得意の「先送り」という事にしたいものである。

    

    

   

   

    

ボール回し

   今朝の日経に豊田泰光氏が「魅惑のボール回し」という一文を

   載せられており興味深かった。

   後追いで言うわけではないが、プレーボール前毎に行われる

   内野手のボール回しこそプロの技の見せ所だと密かに

   思っていたからである。

   スピード感溢れるボール回しは、キャッチング、スローイング、

   正確なコントロール、と野球の基礎であり、それらが作り出す連携

   プレーを魅了させられない、あるいは手抜きするチームは強い筈が

   ないというのが素人の観察である。

   また、試合中における守備面でのプロの技、見せ場というのは

   度々お目にかかれるものではない。

   1度も飛んでこないで試合が終わる野手だってありえるのである。

   そういう意味からも、毎回のボール回し、これぞプロの見せ場であり、

   「ゼニ」の一部である。決してプロたる者なおざりにしてはいけない。

   見ているものは見ている。素人を甘くみてはいけない!

   およそオーケストラの音合わせからイントロに至る静寂の空気。

   落語家の出囃子からまくらに至る濃密な空気。

   プロとアマが醸し出す空気の差は試合前から始まっている。

   

   

考える葦

   人が人として人たらしめるものの1つは、自ら考えると

   いうことではないだろうか。

   唯、この基本的なことが容易ではないということに「考え込んで」しまう。

   自らの意見として述べているつもりが、大概人様の考えられた後の

   エキスを述べているに過ぎないということが多い。

   いわゆる「無党派」層の拡大から、選挙においても相対的に組織票の

   ウエイトが低減傾向にあるが、やはり選挙戦術的には如何に組織票を

   まとめるかは勝敗の鍵となる。

   ここで有権者サイドとして重要な事は、どのような組織に在っても

   最終的な可否は個々の「考え・判断」ということが生きているかどうか

   ということである。

   それを放棄すれば「投票マシーン」に成りかねない。

   どこかの国のように限りなく100%に近い投票率で特定の人に

   投票するというのは、たとえそれが強圧、洗脳の結果だとしても

   究極の悪しき組織票である。

   選ばれた議員も通常「政党」という組織の一員となる。

   ここでも政党の大勢に流され、個々の意見や考えが生かされない、

   あるいはそれによって1人1人が考えることを怠っていけば、

   政党という名の悪しき組織票であり、個々の議員は数合わせのための

   「投票マシーン」 に成り下がる。

   どのような立場、状況においても1人1人が自ら考え、自らの意見を持つ。

   困難と苦痛と時として大きな抵抗を伴うが

   そう簡単には放棄したくないものである。

銀座の雀

   気のおけない連中との集まりがある日、少し早めに家を出て、

   久しぶりに銀座通りを日本橋・三越あたりへと歩いてみた。

   店々の内実は知る由もないが表通りから見るかぎり、ちらとでも

   不景気風を感じさせない店内装飾やセンスのいいプレゼンテーションは

   銀座に店を張る人達の心意気というものであろう。

   もう何度も三越・本店には来ているが、屋上に上がったのは

   初めてであった。 思っていたよりも広い空間がそこにあった。

   戦後しばらく、デパートの屋上は子供たちの夢の空間であり、

   文化の香るところでもあったのであろう。

   今もその残照がかすかに残っているような空気も感じられる佇まいで

   ある。

   歩いてきた足を休めるため近くのベンチに腰掛けた。

   その近くで雀が餌を啄んでいた。

   この屋上から見える景色は、近隣のビル、またビルである。

   言わば大都会のデパートの屋上である。

   そこにも雀がいたのである。

   この雀も、雀なりに必死にこの大都会で居場所を求め

   健気に生きているのであろう。

          銀座の夜、  銀座の朝

          真夜中だって知っている

          隅から隅まで知っている

             おいらは銀座の雀なのさ・・・。

    自然と森繁久弥の「銀座の雀」のメロディを口ずさんでいた。

   

   

プロの政治

   参議院選挙が終わった。 大体予想通りの結果であった。

   選挙後もそれぞれの立場での思惑も絡み、喧騒と迷走が続く事になる。

   

   さて、想うところも多いが、今日明日マスコミで語られる二番煎じは避け

   一寸視点をずらした感想を1つだけ。

   参議院もアマチュアの集団になりつつあるという事である。

   当然プロとして立派な議員もおられるのであろうが、1つのイメージである。

   新人が政治分野にチャレンジし、どんどん参入することは素晴らしい

   事ではある。

   有能な新人が、即戦力として活躍する姿はどの分野においても

   見ていて気持ちのよいものである。

   唯、数合わせのような新人が、すぐレギュラーポジションを与えられ

   1人前の扱いをされているのをみると、その組織そのものの

   レベルを疑ってしまう。

   どうも昨今の参議院をみていると、プロらしいプロの政治家が

   少なくなったような気がする。それがまた参議院の存在そのものを

   揺るがす懸念の1つとなっている。

   名の売れた人が期待され議員になった後、いつのまにか理没して

   しまっているケースも経験している。

  「昔は良かった」と単純には言えないが、特定分野での専門家や

   一言家、政策通、オピニオンリーダーの素養、あるいは寝業師と

   いった個性あるプロの政治家がごろごろいることが参議院の

   存在意義でもある。

   「頑張りまーす」というアマチュア精神旺盛な人が目立つようでは

   一寸心配になってくる。

   勿論「アマチュア集団」が杞憂であることを願ってはいるのであるが。

   

都会の風景

   小雨降る新宿。時間があったので喫茶店で一時を過ごした。

   窓の外を行きかう人の流れを見ていると飽きることもない。

   日本人は全体に体格がよくなったとはいえ、欧米人に比べ、

   かっこいいスーツ姿やワイシャツ姿の男がほとんどいない。

   女性軍も容貌は兎も角、颯爽とした人が少ない。

   これはどうも姿勢や歩き方に問題があるようだ。

   そんなことをぼんやりと考える。

   高峰秀子さんが、パリの街角で向こうから歩いてくる不恰好な

   日本人をみて落胆していると、なんとショウウインドウに写っている

   自分だと気付き茫然とし、帰国後早速歩き方教室に通った。と

   どこかで書かれていた。

    (因みに彼女のエッセイは絶品である)

   新宿は男の街という気がする。

   原宿や渋谷は女の街である。

   別段根拠はない。イメージである。

   ある時、新宿で調べてみた。

   1分間で路行く人の男女比をカウントしたのである。

   偶然にも、三回数えていずれも6対4で男が多かった。

   唯同じ事を伊勢丹あたりの近くでやれば、逆転するかもしれない。

   まあほんの遊び心の実験ではあるけれど・・・。

   ぼんやりとひとり喫茶店でコーヒーを飲んでいる。

   周りからは、さぞ退屈そうと見られているかもしれない。

   でも好奇心さえあれば、都会の風景は退屈なんかさせない。

   ピエロのように面白いことをして笑わせてくれたり、

   ときには切なくさせてくれたり・・。

   ピエロは鏡に写る自分自身かもしれない。

   

   

ルイスという男

   日本のプロ野球にルイスという白人の「捕手」がいたことがある。

   当時の毎日オリオンズに在籍していた。

   外人で捕手というポジションが難しいのは、今も昔も同じであろう。

   珍しいケースであった。

   彼の事を知っているのはかなりの年配で、恐らくそれなりの野球通

   であろう。

   私は小さい頃、偶然にも彼のプレーを京都・西京極球場で見ている。

   東急フライヤーズとの試合で、オリオンズは火の玉投手(と当時は

   そう呼ばれていた)荒巻とルイスのバッテリーであった。

   さて問題はそこからである。

   日本プロ野球界屈指の天才打者といわれた大下弘についてである。

   彼は今も、球史上最強のバッターと推す人がいる位で、東急から

   西鉄に移籍、黄金の西鉄時代の一翼を担ったことはあまりにも

   有名である。

   その大下弘が、当日の試合に東急フライヤーズのメンバーとして

   試合に出ていた。あの大下弘をナマで見ている。見たことがある、と

   ずっと思っていた。思い込んでいたのである。

   ところが・・・である。

   あることからルイスのことを調べていて、とんでもない事に気が付いた。

   ルイスは1954年から2年間日本でプレーしただけで帰国している。

   因みに記録によるとその2年間ともオールスターゲームに出場している。

   私が彼のプレーを見たのは、54年か55年のいづれかという事になる。

   ところが、かの大下弘は、すでに52年、東急から西鉄に移籍して

   いるのである!

   ということは・・・・。

   全くの思い込みであったのである。

   小さいながらも東急といえば大下というイメージがあり、

   その大下をナマで見たいという願望があり、それらがいつのまにか

   大下を見たという思い込みに。

   この一連の流れを、脳科学者の茂木さんならどう解説されるだろうか。

   いづれにしても、長年の思いが、ルイスという選手を契機に単なる

   思い込みであったことに気付いたという次第である。

   まあ他愛のない話で誰に迷惑を掛けたということでもないので

   笑って一件落着という事にする。

   

   

   

   

一指し舞う

   梅棹忠夫氏が亡くなられた。

   多くの方が哀悼の言葉を各紙に寄せられている。

   ある方が、「請われれば一指し舞うような人間になれ」というのが

   氏の口癖だったと日経に紹介されていた。

   なんとも洒脱で、味わいのある言葉かと、こころに残った。

   氏の本意とは離れるかもしれないが、私なりに次のように受け止めた。

     1、 請われるということが大事。

        人からなにも請われないような人間にはなるな。

     2、 請われたら、速やかに可否も含め対処すること。

        理屈より実践。ぐずぐずしているのは下品である。

        その場の空気を壊すようなことをするな。

     3. 一指し舞うもよし、なにか1つでも披露できる技能を

        身につけておけ。それだけで豊かになる。

        そのことが、また人様、世の中に役立つものである。

    全く勝手な解釈である。

    もっと深くて重い意味を込められているのかもしれないが、

    氏は「権威」と常識的な説明、解釈を最も嫌われたと聞く。

    私なりの解釈も許して頂くことにしよう。

職務質問

   今朝の東京新聞に警察の行き過ぎた職務質問について大きく扱われた

   記事があり、その背景に警官に対する「ノルマ」が有り、弁護士による

   ノルマ中止の申し出を報じていた。

   この中で、特に自転車に乗っていたところを急に呼び止められ不当とも

   思える職務質問を受けたという苦情が多いとあった。

   実は私も以前同じ経験をした。

   お互い自転車で行き違った警官が、急にUターンして私を追いかけてきて

   止まるように指示したのである。

   どこからみても紳士(!)風の私に職務質問?

   最初は何のことかも解らなかったが、どうやら所定の防犯防止ラベルが

   目に入らなかったので反射的に声を掛けたらしいことが解った。

   (決して風貌からではないことを強調しておきたい)

   実は当時、京都で買った自転車を乗っていたので、異なるラベルが

   貼ってあったのではあるが・・・。

   そこは警官もプライドがあるのか、引き下がらずいかにも確認する

   といった姿勢を崩さず、番号を調べたりしている。

   私も年の功、その若い警官の内なる動揺が手に取るように解る。

   暫くどこかと番号確認の連絡を取ったあと、わかりましたと

   立ち去ろうとする。

   「一寸待て」 勿論穏やかに丁寧な言葉使いで呼び返した。

   今度は私の方から「職務質問」(?)する番である。

   警官が一般市民の自転車をわざわざ追いかけてきて一寸止まれ

   とは穏やかでない。当然周りの人達はなにか悪いことをしたと

   見てしまう。このような取締り方法は、所管警察署の方針として

   恒常的に行っているのかとじんわりと問い質していった。

   交通違反等なら大いに取り締まるべきだが、防犯ラベルの確認、

   というのではどう考えても行き過ぎた行為である。

   若い警官は、明確な説明が出来ず、仕方なしか特別取締り週間

   であること、そのためにパトロールを強化していた等と言った。

   流石に「ノルマ」という言葉は使わないが、上のほうから実績を

   挙げろといわれていることが痛いほど解る。

   なにも職務に忠実な現場の警官を困らせるのが本意ではない。

   その時はそれで落着させた。

   そういった経験の後での、今朝の新聞記事である。

   同じような経験をしている市民がいかに多いかを改めて知った。

   警察も大変な仕事であることはよく解る。

   ただ実態は兎も角「ノルマ」によって警察が動いているとは

   思いたくない。

   社会のため、市民のため の「モチベーション」を是非忘れないで

   頂きたいものである。

   今朝の新聞を読んでの感想である。

   

   

   

   

   

   

   

幻想の世界

   上野・東京芸術大学美術館の「シャガール展」を見てきた。

   単なる好き嫌いのレベルであろうが、正直に言って「イカルスの墜落」

   以外はあまり印象に残らなかった。

   シャガールの独特の世界に馴染めきれなかったという事かもしれない。

   もったいない話である。

   馬の上で逆立ちしている人物像の絵で、感動・感嘆するほどの感受性が

   まだまだ不足しているということであろう。

   それにしても相当の人気展である。

   多くの人達が、それほどまでに素晴らしいと絶賛する絵をみて、

   多少の疑問と、自信のグラつき。(そしてほんの少しの皮肉をこめて)

 

   シャガールはロシア人である。(後にフランス国籍を取得)

   文学や音楽の分野では、世界的な著名人を輩出しているが、

   画家は寡聞にして、あまり思い付かない。

   ロシア人気質や風土となにか関係があるのだろうか。

   それとも私がよく知らないだけなのか・・・。

   シャガール独特の世界の影響からか、

   私も「写女(シャガール)」とシャレてみた。幻想の世界の余韻である。

   

能ある鷹

   「能ある鷹は爪を隠す」ということわざがある。

   意味するところは、

     精神論的なものと、戦術論という2つの解釈が成り立つ。

     本当に能力のある人は、簡単にそれをひけらかしたりするものでは

     ない。謙譲たれという戒め。と

     有効な武器(決め手)は、ひけらかしたりしないで、ここぞという時に

     使ってこそ、その効果は倍加するものである。ということか。

   ところで有能な鷹も時には「爪を隠さず」ということもある。

   「爪」をあえて開示し、威嚇することで周りの者たちに、安易なちょっかいは

   危険との意識を植え付けさせ無駄な闘争は避けたいとする場合である。

   人間社会ではこれを「抑止力」と称している。

   お互いが自らの「爪」を隠すことなく誇示、威嚇することで、お互いが

   「すくみ」状態を形成するという1つの知恵である。

   ただこの「抑止力」という知恵も万全なものとはなりえない。

   パワーバランスは常に拡大均衡を指向するからである。

   今、能ある鷹も、「隠すべきか、隠さざるべきか」大いに悩んで

   いるのである。

   

     

蓮の季節

   梅雨の合い間のうす曇、蓮が見頃ということで早朝 府中郷土の森

   公園 修景池を訪れた。

   今年も あっという間に7月。 年後半戦を如何に戦う(過ごす)か。

   まずは「蓮華」に合掌。

       「蓮は 泥より出でて 泥に染まらず」

   07010001

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