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2010年8月

ささやかな避暑

   尋常ではない今夏の暑さである。

   夏の間、避暑地で過ごせるような人達には関係ない話ではあるが、

   我々庶民には庶民なりに身近な避暑をひねり出す必要に迫られる。

   私の場合は、毎日のように近くの公園で昼下がりの一時を過ごす。

   幸いなことに、巨樹に覆われたその公園には常に自然の風があり、

   恐らく気温も4-5度は低いのではないだろうか。

   森の小道を散策したり、ベンチに腰掛けぼんやりと頭を休めたり、

   というのが日課のようになっている。

   遠くに行かなくても、避暑地(?)はあるものである。

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   隣接のサッカー場では、若者達がこの炎天下走りまわっている。

   若さというのは凄いものである。

   そういえば我々の頃(運動部)は、水を飲ませてもらえなかったなと

   つまらないことを思い出す。

   

   このささやかな避暑地(?)にも欠陥はある。

   自宅からの行き帰りだけでしっかりと汗だくになってしまうのである。

   無償の享楽には、それなりの代償が必要。世の習いである。

   

   

   

     

対極の記事

   お笑いを通して受刑者の教育活動に貢献したとして元国会議員で

   タレントの西川きよし氏に法務大臣感謝状が贈られたとの記事があった。

   受刑者への更正指導の一環として開催されている刑務所内での

  「年忘れ 演芸会」への長年出演等が評価された模様である。

   時を同じくして、同じ新聞の『死刑制度」を扱った記事のなかに

   2歳の孫娘を殺害されたある『被害者の会」の世話人の方の

   意見が目についた。

   同じ命なのに、被害者は命を奪われ、加害者は生きている。

   遺族の多くは加害者に更正してほしいと思っていない。

   反省はゆるしにつながらない。反省し真人間になっても

   だから何なんだ、というしかない。という心の叫びであった。

   有名人、タレントの刑務所慰問の話は時折耳にする。

   純心なボランティア活動に水を指すつもりは全くないが、

   一方で被害者の立場の心情にも胸を打つものがある。

   他方、受刑者の高齢化の問題も悩ましい。

   高齢の受刑者が刑期を終えて外に出ても生活のあてがなく、

   一応3度の食事と医療環境が整っている『中」に意図的に戻ってくる

   という話も聞く。

   また、タレント、芸人の慰問など受けたこともないホーム等

   精神的、経済的に苦しい『外」の生活者も大勢おられることも

   頭をよぎるのである。

   偶然とはいえ、この2つの記事からも様々なことを

   考えさせられた。

   

    

真夏のミステリー

   戸籍にある100歳以上の方がすでに何十年も前に亡くなっていた。

   という話には驚いたが、それがあたかも氷山の一角の如く次から次へと

   事例が明らかになってくると、驚きを超えて唖然としてしまう。

   ついには150歳から200歳へと記録更新を競うが如くの有り様である。

   以前からも、国(公的)の諸統計には、一定の条件下で作成したものが

   あり、必ずしも実態を反映していないものもある、とは聞いてはいたが

   今回の事例は正しくミステリーの領域である。

   『届出制」の欠陥がもろに出てしまったということでもあろう。

   各市町村のたとえば還付金、諸手当、等々の元にになる基本人口データ

   は大丈夫かと不安になってくる。(年金はすでに問題になっている)

   

   それにつけても、1つ引っ掛かったのは市町村各々調査を開始し、

   次々に調査結果(戸籍の未修正)がマスコミ経由で明らかにされて

   きているが、比較的短期間の調査で実態を掌握しているという

   事実である、

   『その気」になれば、容易に実態が明らかになるのである。

   各市町村のコメントは判を押したように「戸籍を消す作業が滞って

   いた」ということであるが、なんのことはない『その気」がなかった

   というだけではないだろうか。

   役所も昨今『サービス業』化に努めていることは認めるが、

   今回の件はすでに消えてしまったと思っていた昔の『お役所仕事」が

   真夏の幽霊の如く浮かび上がったということであろう。

   

   

   

棋風あれこれ

   敵陣から奪った駒を、自陣の戦力として活用できる。

   誰が考えたのか、将棋のルールとしては特異で興味深い決め事である。

   これによって将棋というゲームをより深いものにしている。

   もう1つ、敵陣深く攻め込んだ「歩」が「と金」として戦力を増すのも

   捨てがたい決めである。

   実際の戦場でこれらの手法を実践したのが「秀吉」ではないだろうか。

   秀吉は戦国時代を勝ち抜いた武将であり、幾多の戦場を経験しているが、

   実際の戦闘(殺傷)は案外好まなかったという説がある。

   その為か、敵陣の需要人物を懐柔し、寝返りさせることによって

   内部崩壊させたり、兵量攻めでじっくりと敵が弱るのを待ったり、

   偽の情報を流して混乱させたりと、力攻めよりもあらゆる手段を

   駆使して勝利ものにしていることが多い。

   これに対し、信長は自らの兵力にものをいわせて徹底的に真っ向勝負

   という手法のようである。

   国内では平安時代からあったと言われている将棋(原型)を

   二人が知っていたかどうかは定かでないが、もし興じていたとすれば

   ふたりの棋風は全く異なるのではないか・・・と想像するのも面白い。

   もしそうだとすれば全く棋風の異なる信長名人から、秀吉名人に

   権力が引き継がれたとみるのも一興である。

   想像ついでに、信長の相手を命じられた部下は大変である。

   わざと負けるようなことは最も嫌悪され、さりとて2~3番続けて

   勝つようなことになればこれまた命懸け。さあどうする!

   秀吉は上手くやったが、光秀はこういうのが苦手である。

   これが「本能寺の変」の遠因。という説は如何であろうか。

   

2010夏

   2010年夏 私は何をしていたか?

   後年、振り返って鮮明な思い出が浮かび上がる夏でありたい!

   夏というのはそういう季節であるようだ。

   若い時からの密かな想いである。

   この猛暑が続く1週間、NHKの「ハーバード白熱教室」を見ていた。

   サンデル教授(政治哲学、正義論)による授業、延べ12時間の

   長丁場であった。

   連続では私の頭がパンクする。

   録画をしておき、1時間単位で見るのであるが、それでも

   私の脳細胞は硬直する。

   ハーバードの学生のようにはついていけない(当たり前か!)

   どの程度理解出来たかはあえて触れない。

   2010年の夏、ハーバードの授業を垣間見ただけでも良しとしておきたい、

   授業内容について論評する力はない。

   ハーバード大学学生の多様性(半数が女性、白人、黒人、アジア人種

   等々)を知り得ただけでも理屈抜きに興味深いことであった。

   

   猛暑の中で、身体は相当いかれているが、年齢に関係なく、

   好奇心だけはなんとか維持したいと願っている。

   今夏、ハーバード大学の人気授業を提供してくれたNHKに感謝!

   

スポーツを通じて

   政治的な事柄はさておき、この3月に中国・南京で日中友好南京

   柔道館が完成。青島に次ぎ2つ目の柔道場とのことである。

   これには山下泰裕氏の尽力が大ということであった。

   氏の説明によると、きっかけは北京オリンピックの前、中国関係者から

   男子柔道強化に力を貸してほしいとの要請があり、柔道普及のため

   協力に応じたことから始まり、友好関係の深まりから柔道館建設へと

   話が進んだということである。

   南京での建設に際しては、国内でも反日感情を懸念して多くの人達の

   反対もあったが、日中友好のためあえてその地での建設を推進し

   結果的に中国側からも友好的な歓迎を受けたとのことである。

   資金的にはわが国(NPO経由)が負担しているが、考えようによっては

   政治家の『友好」使節団等で使うかねよりも「有効」かもしれない。

   

   仄聞によれば、山下氏はプーチンとも親交があり、人間的にも

   信頼されている由。この3月にも別件でモスクワ訪問の折、プーチンの

   要望により懇談の時間を設けている。

   これらの活動は、なにも「政治家」にならなくても、立派に地道に

   スポーツ友好に大きく寄与している好例である。

   マスコミもこういった民間の地道な「スポーツ友好」にもっと光を

   あてては如何であろうか。

   

  

   

普通という事

   現在を象徴する1つのキーワードとして、「普通であることからの決別」を

   挙げることができる。

   普通では飽き足らない、普通ではないものを追求する。

   普通であることからの脱却である。

   「普通」の反対語は「特別」ということになろうが、脱却の方向を

   間違えると「異常」ということになる。

   つまり今の時代、普通からの脱却を1つ間違えると「異常の時代」という

   リスクを負う。

   ただ叫びまくっているように聞こえる歌が流行る。

   一方でボイストレーニングを一度も受けたことのないようなタレントが、

   何を言っているのか分からないことを口先だけで歌う、

   この歌が売れる。

   国民皆が口ずさめるような「普通」の歌は最早流行らない。

   テレビ番組の司会者は、番組名をほとんど叫ぶようにして紹介する。

   精巧なマイクがあるにもかかわらず。普通の口調では駄目らしい。

   どの分野においても普通からの脱却に必死である。

   何故「普通」ではいけないのか?

   1つ考えられることを独断的に言えば、小さい頃の通知表である。

   評価を次の段階で叩き込まれる。

      1.  よくがんばりました

      2.  普通

      3.  がんばりましょう

   この「普通」のトラウマである。

   普通では駄目なのである。普通では不満足なのである。

   小さい頃から普通というのはあまりよくない状態、どちらかと言えば

   マイナスイメージと して植えつけられるのである。

   いわゆる「可もなし、不可もなし」というニュアンスである。

   なんとか「普通」から抜け出したいという思いを引きずりながら

   大人になり、これらの大人たちによって社会が構成される。

   「普通」という概念は実に難解であるが、

   自分なりの解釈で、昨今「普通」でいいじゃないかという心境

   になっている。さらに偉そうなことをあえて言えば、世の中

   もうそろそろ普通のよさを見直してもいいのではないかと

   思っている。

   普通の生活、普通の家庭、普通の人生・・・・・。

   

 

   

形式の典型

   100歳以上の高齢者に対し、長年に亘りお祝い品等を贈っていたが、

   肝心のご当人はすでに亡くなっていたか、不明という記事はなんとも

   やり切れない。

   お祝いするということは、素直に解釈すれば高齢者を敬う「気持ち」を

   行政的に制度化したものであろうが、形式を整えることによって

   「形」だけが稼動し、「実」に結び付いていなかったという事になる。

   特に119歳と日本最長寿の方が不明ということは、行政の怠慢と

   いうか無関心といわれても仕方がない面がある。

   このようなケースを「形式の典型」というのであろう。

   行政も大変なことは理解できる。

   職員や民生委員の定期訪問等によって「確認」すべしという声も

   多いが、それを拒否ないし良からずに思う老人も多いと聞く。

   確かにそうであろう、友、遠方より来るなら歓迎だろうが、なんだか

   「生きているかどうか」を確かめにくるような訪問ならあまりいい気持ち

   はしないであろう。

   民生委員を引き受けるような人はそれなりにこころある人達ばかり

   であろうが、やはり受け手の論理というものであろう。

   今回のニュースは多くの人にとって盲点だったのではなかろうか。

   今日現在 不明者は74名と報道していた。

   この世の中、予想もしない実態や、出来事が生じることがある。

   今夏、この猛暑続きも想定外であった。

   

映画の本質

   生誕100年とかで、社会派映画監督 「山本薩夫」の

   「金環蝕」 「不毛地帯」 「白い巨塔」 等をNHK衛星放送で

   連続放映している。

   いずれも時代を反映する力作揃いである。

   今回改めてその一部をみて感じるのは、

   映画の持つ「エンターテイメント」という事である。

   映画という媒体を通して何らかの意図を発信する場合、

   そのテーマが深刻で深遠なものであればあるほど、ややもすると

   一本調子と言うか、「間」もなく、濃淡もない、ましてユーモアもない

   シロモノになりがちである。

   昔の全学連の演説口調の如きものである。

   これに対し山本薩夫の映画には、どのような内容を扱うにしろ、

   しっかりと「エンターテイメント」の要素が盛り込まれている。

   残る映画にはこの「エンターテイメント」が欠かせない。

   今回、山本薩夫の映画を観てそんなことを感じた。

  

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