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2011年2月

滞留するお金

   振込め詐欺の被害に遭われたご高齢の方には同情を禁じえないし、

   年寄りを騙す奴も許しがたい。

   防止のためのあらゆる手立てが計られているところであるが、それでも

   相変わらずあとを絶たないのは一体どういうことだろうか。

   批判的な立場で言うわけではないが、新聞記事等によると、

   被害者の大半が、ほとんど即日に、しかも誰の手を借りることなく

   何百万というお金を都合されていることに一寸驚くのである。

   別に他人の懐具合を詮索するつもりはないが、

   富裕層の間では、それ位のお金は常に手元にあるのかもしれないが、

   平均的な感覚からすると、大金がその日の内に都合がつくというのは

   手持ち資金の大半が、現金で、いわゆる「タンス預金」で保有されて

   いるか、精々すぐに現金化できる普通預金でプールされているのでは

   なかろうか、と勝手に想像するのである。

   昨今定期預金金利もほとんどゼロ金利に近い水準であり、流動性

   確保のためからも定期から普通へのシフトが進んでいるらしい。

   ますます、より「現金保有化」が増えることになる。

   この傾向は、個人金融資産のかなりの部分が滞留することを

   意味し、個人(家計)的にも、マクロ経済的にも好ましい姿とは

   いえない。

   だからといって、高齢者に他の投資や、不確かな金融商品を

   安易に薦めることはいかにもリスキーである。

   結果として、安全に手元に現金で・・・という現象ではないだろうか。

   せめて定期預金金利(現行0.03%)が、主要国に近い数%の

   水準であれば、多少なりとも間接的に振込め詐欺の防止になるのでは

   と、連想するのである。

   人間手元にいつでも使える現金(流動性資金)があれば、ついうまい

   儲け話に乗ってしまう、ということもありえる。

   その防止効果も多少はあるだろう。

   さらに多少でも利息が付けば、余力資金として消費に向けられ、

   その分、景気浮揚に寄与するかもしれない。

   等々、経済・金融の理屈ではなく、1市民としての「感覚」の話である。

   今の世の中、難しい数学を使っての経済政策よりも

   要するにお金をどう動かすかである。

   素人の「第一感」もバカにならないのである。

   以上、振込め詐欺からの連想である。

   

   

   

   

   

   

   

本日の雑感

   残念ながら、手持ちの「札不足」で、「投資」とか「資産運用」とかいう

   世界とは全く縁のない日々を過ごしているが、それでも常識的な

   範囲で、株価や為替の動向を見るのが習慣になっている。

   その関心の延長線上なのか、「ウオールストリート」という映画を

   観てきた。

   平日の昼下がりの時間帯で、客の入りも左程ではなかったが、

   予想外にも女性客が8割強だったのには驚いた。

   映画の内容からみて、いくら平日とはいえ、ほとんど男性客かなと

   思っていた私が時代に乗り遅れていた。

   世の中は着実に動いているのである。

   それとなく見渡すといわゆる「オバサマ族」である。

   そういえば、あらゆる業種の営業現場では、家電も、車も、住宅でさえ

   決定権は奥様族が持っている、ということはよく聞く。

   財布を握っている彼女達がその延長線で「投資」や「運用」に関心を

   持ち、勉強し、やおら乗り出してくるのは必然であったのである。

   世の男どもは、女性の資産運用をそっとうしろから心配気に

   見守っているだけである。

   蔭で経済を動かし始めているのは女性パワーかもしれない。

    付記

     全く話が違うが、何気に雑誌、新聞に目を通していて

     思わず吹き出しそうな記述に出くわしたので書き留めておく。

        (どちらも「ジョーク」である、念のため)

      1.  大連合が成立した、政党名は次の通り。

            「みんなで自由に立ち上がれ民主党」

      2.  大相撲の「八百長」組織

            「八百長」というから騒がれるので

            これからは「互助会」と呼ぶようにする。

                                    以上  

   

財政再建の成否

   政権交代をしても、わが国の財政赤字は膨らむばかりである。

   歴代の政権もこの課題に取組んできたが、確たる成果は見えない。

   従来からの延長線上で、あれこれ手を尽くしても遅々として改善しない

   ところまで来ている。

   思い切った発想の転換が必要である。

   およそ財政再建には、歳入(景気浮揚策による税収増、直接的な

   増税策等)と、歳出、両面からの複合的施策が必要とされるが、

   歳出面に話を絞ると、

   そもそも赤字対策の発想の出発点が「無駄を無くす」ことから

   スタートしてしまっている。

   「無駄を無くす」事など、20年も30年も前から言い続けている話である。

   社会福祉関連予算の増大からも、「無駄を無くす」レベルでは、抜本的

   解決にはならないことなど、10年以上前からも解っている事である。

     (人口動態は随一予測可能な指標と言われている)

   勿論、無駄を無くすことは歳出面での最重要な課題ではある。が

   必要条件だが、十分条件ではないことに気付くべきである。

   この際、赤字対策での重要な発想は、微妙なニュアンスだが、

   無駄を無くすというレベルから、「切り詰める」というレベルへの

   転換である。

   家計においても、収入が数%ダウンのレベルでは、「無駄使い」は

   止めようという事でなんとか対応できたとしても、20~30%の

   カットでそれが常態化でもすれば、収入に見合うところまで

   「切り詰める」しかない、という理屈になる。

   国家予算も、赤字国債の効用等認めるとしても根本の理屈は

   同じである。

   但し、ここで需要な視点を忘れてはならない。

   「切り詰め」の方法を間違えると、事態はさらに悪化する。という

   ことである。

   いわゆる、弱者、あるいは切り詰め易いところから実施する。

   これが最悪であり、かつ最も陥り易い落とし穴ということである。

   この場合、民間企業で苦境から立ち直った再建例を参考に

   すればよい。

   トップ層自ら率先して「切り詰め」の対象となる。常識である。

   この順序を間違えると100%失敗する。

   財政再建もまず「自らのコスト」を見直し、抵抗勢力、タブーに

   手を入れ、「切り詰め」の実績を作り出す事。

   このための強いリーダーシップ、である。

     (このブログでも触れた議員減案もその1つ)

   財政再建は、夢をもう1度、高度成長が到来でもしない限り、

   誰もが傷つかないで乗り切れるほど甘くない。

   それこそ「命懸け」の課題である。

   国会議員のうち、何人がこのことを自覚し、自らの課題として

   取組んでいるのであろうか。

   

   

   

   

   

途中下車の街

   若い頃に数年住んだことのある街が数ヶ所ある。

   ふと思い立って訪ねてみる。

   何年振りか、あるいは何十年振りか、である。

   目新しいビルや、大型店舗に時の流れを感じさせるが、

   一歩表通りを離れると、当時のままの古い飲食店や、通っていた

   理髪店が同じ場所にあるのを見つけたりすると、なんだか

   ほっとした気持ちになる。

   生まれ育った街というわけではないが、

   人生の途中で巡り合った街としての想いが湧き上がる。

   「懐かしさ」という、単色の風景でもなく、

   喜びや切なさ、あるいは哀しみまでも引き起こさせる、

   深い風景がそこにはある。

   若い頃の思い出自体が、そういうものかもしれない。

   

   うしろを振り返ることなく、ただ前進あるのみ、の人生も

   それなりの考えだが、

   時には、途中下車も「味わい」がある。

   若い頃に住んだことのある街。

   内省の街でもある。

   

 

 

   

   

   

世間との接点

   関西(大阪)弁で、「おもろい奴」という言い方がある。

   「おもろい」という言葉には3つの意味合い(ニュアンス)があるようだ。

   1つは、   あのお笑い芸人はおもろい、あの落語はおもろいという

           場合の意味合いで、通常よく使われる「面白い」である。

   2つは、   一寸変わっている、変な、的外れというニュアンス。

           おの人は時々おもろいことを言う、という場合の

           おもろいである。

   3つ目は、 あの人は案外見所がある、結構やるじゃないかという

           ニュアンス。

           あの若者はおもろいところがある、のおもろいである。

   関西人、あるいは関西出身者にはこのニュアンスの違いをおわかり

   いただけるのではないだろうか。  

   

   話が飛躍するが、国際社会において、一定の存在感を有するためには

   廻りからあの国は「おもろい」と思ってもらう、あるいは思わせることが

   外交上からも不可避である。

   そう思われないと、あの国と話合う必要なし、話ても益なしとなって

   しまい、たちまち国益にも影響してくることになる。

   勿論、この場合の「おもろい」は3つ目のニュアンスのそれである。

   間違っても、2つ目のニュアンスで言われていることに気付かないのは

   悲惨なことになる。

   これらの事は個々人にもそのまま当てはまる。

   人間、歳を経るに従い、社会、世間との接点、間口が次第に狭くなり

   究極には自然と「引きこもり」状態になりがちである。

   それを少しでも避けるための鍵は、この「おもろい奴」ではないか、

   というのが私なりの見立てである。

   勿論これも3つ目のニュアンスのそれであるのは言うまでもない。

   廻りから「おもろい奴」とみてもらえるかどうか。

   そのためには「自分なりの考えをしっかり持つ事」

   国も個人も同じである。

   こんな事を言っていると、「おもろい奴」(2つ目のニュアンス)と

   揶揄されるかもしれないが、「俺はこう思う」ことだがら、

   甘んじるしかないのである。

ホンモノの活気

   経済の疲弊から、どの市町村の首長も「活気ある町つくり」

   「活気を取り戻す」施策、推進に必死の様相である。

   ただ悲しいかな、人間の考える事、そんなに「画期」的なアイデアが

   転がっているわけではない。

   どうしても似たり寄ったり、他から「お取り寄せ」の方策になりがちである。

   その活気ある町つくりの象徴が「駅前風景」に見られる。

   どの都市の「駅前」も似たり寄ったりになってしまった。

   「活気」を「町つくり」のシステムに入力すると、同じ様な風景が

   アウトプットされるという、システムの基本原理である。

   そこに住む人達が満足していれば、たとえ同じ風景であっても

   一向に構わないが、1つ気をつけないといけない事がある。

   「活気」のなかに予想外の異物が混在していることである。

   それが、あらぬ方向に向けて動き出すと厄介なことになる。

   大半の駅前は、「激安」の看板が「我」を競うようにひしめきあい、

   陰気な若者がチラシを配り、店の商品が歩道まで迫り出し、

   その歩道には自転車やゴミが散乱し、そして耳を塞ぎたくなるような

   喧騒、喧騒。  これが「活気」といわれているものの実態となる。

   昔の人はこれを「活気」と言わないで「がさつ」と言った。

   活気とがさつの区別がつかないようなこれらの風景が「活気」ある

   町として席捲している、ということになる。

   まあ「シャッター通り」よりはまし、ということはいえるが、

   「本質」を押さえておかないと安きに流れる。

   人間の世界も同様である。

   「活気」と「がさつ」の区別が出来ない人々によって、「がさつ」だけの

   テレビ番組やタレントが人気モノになる時代である。

   ホンモノの活気には「清潔感」がある。

   ホンモノの活気が一流のアスリートを育てる。

   ホンモノの「活気」ある町に住み続けたいものである。

   

   

   

安全確認に思う

   根が小心者なのか、未だジェットコースターという乗り物に乗った事

   がない。

   これからもお金を払ってまで乗るつもりもない。

   だからといってこの乗り物を否定しているわけでもない。

   人間にとってスリルを味わうという欲求があることは否定し難いし、

   それにのめり込む人達の気持ちもよく判る。

   このジェットコースターで人身事故が生じた。

   「30代の成人男子」とのことで、なんとも痛ましい話である。

   設置、運営会社が、その安全管理について厳しく追求される事は当然で

   あり、今後の事故防止のためにも不可欠である。

   この事を全て踏まえた上での話であるが、1つ気になったことがある。

   「安全確認」は「ダブルチェック」が大原則と教えられてきた。

   ジェットコースターの場合、まず乗客1人1人が、このスリリングな

   乗り物に乗る心構えとして、「自らの安全を確認」する、この場合は

   安全ベルトのチェックをすることが前提になければならない。

   大袈裟にいえば、危機管理の問題である。

   ただ乗客のなかには、小さい子供や安全ベルトの取り扱いに

   不慣れな人達がいる。したがって自らの責任において運営側

   作業員が総点検し、安全を確認した後、スタートさせるというのが

   あるべき「安全確認」の姿である。

   安全ベルトの不具合や、脱輪事故等は論外である。

   冷静な論点として、果して今回の事故はどうだったのであろうか。

   法律上の責任論や、ましてや死人に鞭を打つような意図は全くない。

   あくまで安全確認の原則論である。

   「乗客サイドも可能な限り安全には気を配ろう」という視点も

   今後の事故防止のための啓蒙になる。

   今回一連の報道にはその視点が抜けているように感じた。

   繰り返すが、あくまで業者の責任追及を踏まえての話である。

   

   

親父の背中 その2

   親父が亡くなった時、私は30代半ばであった。

   それまで若い頃は自分達のことで精一杯で、廻り(特に両親)に対する

   孝行・気配りに欠けていた、と今になってつくづく思う。

   外で食事をしても、いつも当たり前のように親父が払ってくれていた。

   金銭的な事ではなく、今日は俺が払うよと息子から言われればどんなに

   嬉しかったことだろう、と今にして思う。

   時折実家に帰った時に、親父とゴルフに出掛けたことがある。

   通常は若い息子の方が上手いものだが、我々の場合は親父が

   ダントツで勝負にならなかった。

    (親父は明治の生まれだが、若い頃から社交ダンス、乗馬、玉突き、

     長唄、ゴルフと多趣味で、ゴルフもホールインワンを経験している)

   それでも息子と一緒のラウンドも親父なりに楽しかったのではないかと

   今にして思う。

   親父の晩年、といっても丁度今の私の年齢の頃だが、実家に寄ると

   専ら親父と将棋をして過ごすことが多かった。

   将棋に関してはなんとか互角であったことから、お互いに熱中する

   ことが出来たのであろう。

   ある時、それまで使っていた将棋盤が古いものだったので、

   脚付き盤を親父にプレゼントしたことがある。

   若いサラリーマンが買える程度のものであったが、それでも親父は

   喜んでくれ、その後それを使うようになった。

   そんなある日、珍しくも私が3連勝したことがあった。

   それが親父との最後の将棋になった。

   すでにその頃から親父の身体が弱っていたことを今にして思う。

   親父の死後、今その将棋盤は我が家にある。

   ある時、ふと将棋盤の裏に目をやると、

   そこに毛筆で黒々と「贈」の字と、私の名前、年月日が書かれていた。

   親父の字である。

   流石にこみあげるものがあった。

   親父というものは、やはり亡くなった後も息子達に影響を

   与える存在なのである。

   

   

   

親父の背中

   何時の頃からか、人生70年(歳)という思いが頭を過ぎるようになった。

   別に70歳で終わってしまうということではなく、70歳が1つの区切りと

   いうか節目で、その後80~90~と生きられるとすれば、その間は

   人生の「ご褒美」という考えである。

   そのご褒美が5年間で終わったとしても、それまでの5年間の

   ご褒美に対し、「ありがとう」と感謝して生を終えられることが出来れば

   という思いなのである。

   これはなにも諦観の末の指針といった高邁な結果ではなく、なんとなく

   そう思うようになってきたということである。

   その70歳まで数年である。

   70という歳にこだわるのは、親父が70歳で亡くなったということと

   関係するかもしれない。

   自然と息子に刷り込まれるということなのであろう。

   そういえば、我々の年代の人達の中にも親父の亡くなった年齢を

   意識している人は多い。

   親父というものは、亡くなった後も息子達に影響を与える存在である。

   余談だが、「楢山節考」は、相当年配のお年寄りのイメージがあるが、

   「70歳」になると「楢山まいり」に行くという切ない風習の物語である。

   今は口減らしもなく、平均寿命も延びて、「ご褒美」を沢山戴ける

   時代になったことだけでも、感謝を忘れないようにしたい。

   

   

 

  

 

     

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