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2011年3月

底辺で働く人々

   地震の爪あとは、日を追うごとにその大きさを思い知らされる。 

   福島原発も未だ不透明で、収束の兆しも見えない。

   今、あれこれの発言は、各分野の専門家に任せるしかない。が

   そういった中で、忘れてならないのは底辺で黙々と働いている人々の

   事である。

   多くの批判の的になっている東京電力にも、現地の多くの社員達が、

   寝る間もなく、しかも身内が行方不明といった状況のなかで、

   必死に業務を遂行している。

   組織を批判することは容易である。 だがその底辺で必死に頑張って

   いる人達がいることも、我々は忘れてはならない。

   勿論、東電の人達ばかりではない。

   全国から救助、救援に駆けつけた多くの人達、あるいは自ら罹災し

   ながらも、廻りの人達に救助の手を差し伸べている多くの人々。

   これら底辺で黙々と働く多くの人達の力とこころの結集こそが

   復興への光であると信じたい。

   仙台在住のある作家の、マスコミ報道や「東京人」の反応に対する

   激しい怒りの声を週刊誌や新聞で見かけた。

   一方で、ある年配の罹災者が、まず感謝の気持ちを口にされて

   いるのも聞いた。

   どちらも夫々に極限を体験された「ナマ」の思いなのであろうが、

   私には、名もない一老人の声にほっとしたのは確かであり、

   この老人の言葉こそが、復興のエネルギーにつながるのではないかと

   考えるのである。

   

   

   

ハーモニカの音

   関東大震災の時、上野の山に避難した人々が不安な夜を過ごして

   いるなかで、何処からともなく聞こえてきたハーモニカの音(ね)に

   思わず聞き入り心が癒された。という話をどこかで読んだことがある。

   今そのことを思い出している。

   人によっては、この時期に暢気にハーモニカなんて吹いて・・・と

   批判する人がいるかもしれない。でもその音に心を癒され、励まされた

   人達がいたことも確かなのであろう。

   今、各地で様々な行事や計画について、予定通り実施するか、自粛

   するかで揺れ動いているに違いない。

   どちらの意見もそれなりに一理あるだけにその決断は容易ではない。

   そんななかで、プロ野球セ・リーグが予定通り25日東京ドームでナイター

   を行うと言う。励ましや元気を出してもらうための意図も込めてという

   ことらしいが、節電や計画停電を実施しているお膝元での強行は、

   非常識と言われても仕方がない。

   やるとしてもなんらかの条件付修正がなされることになるのだろう。

   そんな事よりも、たとえば規模は小さくても、ローソクの光のなかでの

   路上ライブや、ミニコンサートの方が、罹災地の人達を含め

   深くこころに届くのではないだろうか。

   煌々と輝くドームの光よりも、ローソクの光のほうが、復興への光に

   相応しい。と、今そんなことを想っている。

母なる大地

   大変な大地震であった。

   小学生位の子供が、行方不明の両親を探し回る姿をテレビで

   見ていると、いたたまれない。

   心から、罹災者に対し哀悼の意とお見舞いを申し上げたい。

   つくづくと我々人間は、日頃豊かな母なる大地に恵まれて生きて

   いるのかを思い知らされる。

   人類が営々と築きあげてきた文明や文化、芸術や伝統も

   恵まれた大地である地球の存在があっての事である。

   そんな当たり前のことが漫然と頭を過ぎる。

   「人間捨てたものじゃない」という光景も数多く見受けた。

   非難や不満や愚痴を並べても事が良くなるわけではない。

   今はただ、寡黙に事態を見守り、一刻も早くの復興の光をと

   祈るばかりである。

   

任命責任

   自民党政権時代から今日まで、大臣の不祥事等がある度に、

   総理の任命責任が問われてきた。

   どうもこの「任命責任」。解ったようでわからないところがある。

   広義に解釈すれば、どのようなポストにせよ、任命という行為には

   任命者としての責任が付いて廻ることは当たり前である。

   だからといって常に広義の解釈で糾明することが、常識的な見識、

   知恵とも思えない。

   一定のラインがあってしかるべきである。

   今回の前原外相辞任の際も、総理の任命責任が国会で追求された。

   総理もこれを認めたが、一連のやり取りを見ていると、任命責任の

   有無検証というより、「認めさせる」ことに意味がある、ある種の

   政治的 「含み」を感じてしまうのである。

   時々の総理が、自らのルートで民間から大臣に採用した人事、

   あるいは極端な例だが、身内を重要なポストにつけさせたような

   場合には、国会の場において厳しく糾弾される事は当然である。

   たた、国民によって選ばれた国会議員、しかもしかるべき重要な

   ポストを経た議員の中から大臣を任命した、その任命責任とは・・、

   と考えると、そう簡単な問題ではない。

   大臣としての職務や判断能力ではなく、「任命」したその事自体の

   責任といった場合、被任命者の「国会議員」というのは一体

   何なのだろうか。

   総理の任命責任といった場合、本来は不祥事や失言といったこと

   よりも、所轄大臣としての「知識、見識、あるいは能力、資質」といった

   点でいかにもそのポストに相応しくない人を別の思惑で選んだ場合に

   こそ、その「任命責任」が問われるべきものである。

   大臣の個人的な不祥事等の処置は処置として、時々の総理の

   任命責任で政局が大きく揺らぐようでは、なんだか政治の「未熟さ」

   を感じてしまうのは私だけであろうか。

   40年も君臨する独裁政治に比べれば、些細なことではあるけれど。

   

   

匿名の献金

   前原外相が辞任した。

   ルールはルールである。本人の脇の甘さも指摘されている。

   「辞任」が相当かどうかは、意見の分かれるところだが、いずれにしろ

   なんらかの処置は必要ということなのだろう。

   それでも、「おい日本よ、このような状況をいつまで繰り返して

   いるのだ!」というのが、大方の国民の声ではなかろうか。

   本件は、極めて遺憾、許しがたい問題とする意見も解らないではないが

   「ノンポリ」の一市民感覚として、今回の政治献金がそんなに国会審議

   に影響を与え、「国を揺るがす」ような事なのだろうか、というのが

   正直なところである。

   (金額の多寡ではないという意見もあるが、それ以前の取り扱いとして)

   政治献金は企業献金から個人献金への流れを指向している筈。

   外国人からの献金禁止は、それなりの見解、根拠に基づいた規制

   ではあるが、その規制上、「匿名」の個人献金は不可という理屈になる。

   「タイガーマスク」からの善意の献金は駄目ということである。

   ルールとはいえなんだか「ザラザラ」した世の中である。

   偶々、今朝の新聞に、1974年の都条例(食品製造業等取締条例)が

   生きていたため、上野駅での直産市で納豆を販売することに待ったが

   掛かったという記事があった。(その後特例で条件付許可)

   今時パック詰めもしっかりしているが、ルールはルールの例である。

   さらに以前読んだ本の一説である。

   「連合艦隊の作戦遂行は、たとえ司令長官といえども、「個人的な

   事由」で作戦が停滞することがあってはならない」

   なんだか今の日本、個人的な不祥事、失言等によって、

   全体の「作戦」が停滞することが多すぎる。

   個人は個人、全体は全体である。

   今、この国にとって何が大切か、考えさせられる一言である。

   

短い感想

   「減税日本」というのが、「ブーム」になりかかっている。

   私にはまだ十分に把握出来ていない。

   まず減税ありき、最初に「旗印」を掲げて・・・という発想なのかも

   しれない。それはそれで1つの方法論である。

   内容よりも、この「減税」というワンフレーズが理屈抜きに

   閉塞感でイライラしている市民に受けているのかもしれない。

   ある「たとえ話」を想起した。

   子供にとって、「今年は小遣い据え置き」という親と、

   「小遣いを2倍にしてやる」という親。

   圧倒的に子供の「人気」は、後者の親に集中する。

   まさかこのような次元の話ではないだろう。 が

   今のところ、この程度の感想しか思い浮かばない。

   この「社会現象」が大化けするのかどうか、もう少し様子を

   伺う必要がある。

   

   

専門家のコメント

   今回の京大入試事件、大方の専門家(識者)のコメントは、単独では

   「技術的」に困難、複数での実行ではないか、というものが多かった

   ように思う。

   ところが昨日現在、当事者の供述では単独だった、と報じられている。

   しかも股に挟んで発信と、極めて原始的な作業だったようだ。

   記者による、「複数者による実行か・・」という記事であれば、左程

   驚かないが、専門家のコメントがあまりにも事実と乖離していると

   一寸無関心ではいられない。

   「責任追及」云々ではなく、単純に専門家が、「技術的」に困難と

   判断していたことが、単独で行われていたとすれば、マスコミサイドも

   その疑問に対する解説なり、説明のフォローが必要ではないだろうか

   と考えるのである。

   まあ結論的には、単独でも「やろうと思えば出来る」程度のことだった

   ということになるのかもしれないが・・。

   テーマ(内容)によっては、全く対立した識者のコメントが列記される

   ことがある。この場合はマスコミ報道としては常道なもので、意見を

   対比させることに意味がある。

   今回の場合はそれとは異なり、専門家による解説的な要素が

   強いものだっただけに、もし当事者の供述通りだとすれば

   なんだか釈然としない。

   専門家やコメンテーターと言われる人達のコメントも、大半は

   参考になる「コメント」なのであろうが、

   中には鵜呑みに出来ないものもある。

   我々より、半歩、あるいは1歩先の情報を掴んでいるというだけの

   訳知り顔の「コメント」は要注意である。

   自分だけが知っている「噂話」を得意気に話す類である。

   その情報そのもの、その情報の分析、洞察が正しいかどうかは

   別問題である。

   体験的に言えば、「北朝鮮問題」にその傾向が見られる。

   それが表面化する度に「専門家」による、解説なり、見解、助言、

   見通しなどに接する機会が多くなるが、案外その通りの流れに

   なることは少ない。

   確かにその時点では、我々の知りえない情報も踏まえ、責任ある

   コメントをされているのであろうが、それが必ずしも現実の動きに

   ならないのは、京大入試事件のそれと同じである。

   「拉致問題」が進捗していないこともその証左といえる。

   一説によると、最も信頼できる情報は、それら専門家の見解以上に、

   同国で「料理人」をしていた人からの情報だった、という

   「切ない」話もある。

   専門家(識者)のコメンは、世論をリードすることも十分あるだけに

   時には、1歩下がって聞くことも大切である。

   

   

   

飲み会の話題

   酒を酌み交わしながらの熱っぽい議論も、もし速記に起こしたとすれば

   大抵はその場限りの無責任な放談、支離滅裂なやりとりに違いない。

   それはそれでまた、酒飲みの格別の法悦、醍醐味でもある。

   私のこのブログもその類に違いない。

   それでも、偶には退屈しのぎに目を通してくれる人も幾らかは

   いてくれるようである。

   ある時、ある席で、ある人から、「お前(私のことである)のこの間の

   シンメトリーの話だが、俺もあることに気が付いた。

   「東西南北」って4文字とも左右対称だよな、これって偶然?」

   という、なんとも酒の席に相応しい(?)話題の提供である。

   確かに言われてみればその通り、偶然とも思えない。

   さあそれから暫くこの話で盛り上がることこの上ない。

   と言っても、もとより酒を飲みながらの無責任な議論。

   夫々門外漢の我々が思いつくままの言いたい放題である。

   書き留めておくような内容でもないが、それこそが酒席での

   醍醐味でもある。

   私の拙ないブログも百に1つくらいは、酒の肴(ネタ)に

   なることがあるのである。

   なんとも面がゆいほろ酔いの一夜であった。

   調子に乗って、即興句(?)

         古里に坐す  空に美あり

         東西南北 一画一音に 真実あり

         古里は善きかな

            (横書きじゃ、面白くありませんやね ご隠居)

          

   

   

   

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