« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »

2011年6月

二つの総会

   昨日(28日)は、何か「見えざる力」によって仕組まれたかのように

   同日に2つの総会が開かれた。

   東電の株主総会と民主党両院議員総会である。

   予想されていた通りというか、当事者にとって予定通りというか、

   特別に課題の進展というか、問題の解明がなされる事なく、

   双方とも不完全燃焼のまま終了という見事な共通項を残す事となった。

   これらに対し、何時ものように様々な論評、コメントが飛び変わっているが、

   まあこれらも大体予想通りの筋書きばかりである。

   

   「具体的な内容が届いていないので、コメントを控える」 と

   格好よくキメたいところだが、 「ずっと控えていろ」ということになるので

   東電の株主総会の感想を1つだけ・・・。

   東電はすでに通常の上場企業として制御するには、質量ともに

   凌駕してしまい、いまや「怪物」になってしまったという印象を持った。

   この「怪物」を「ピストル」で制御しようとしても、無理ということを

   改めて思い知った。

   たとえば、食品や建設会社であれば、もしその経営体が反社会的、

   反道徳的な行為を犯した場合、当然社会からの反発を受け、

   「不買運動」から、場合により「消滅」というリスクを負うことになる。

   ところが電力会社の場合、現状の供給体制では、「不買運動」は

   もとより、代替の目途がない限り清算というわけにもいかない「商品」

   を扱っている。

   この特殊性を背景として1民間企業でありながら、公共性を加味した

   「怪物」になってしまっていたのである。

   誤解を恐れずに言えば、今後のわが国の原発方針を1民間企業の

   株主総会で決めるのかということにもなり、一方では民間企業として

   今後の原発対応について方針を決めるのは(株主の立場としても)

   当然の経営行為である。ともいえる。

   その辺の整理が交錯したままでの「株主総会」。

   結果はみての通り、予想通りではあったが、コレを1つの契機と

   するならばヒントは、すでに起りつつある「電力供給(原発を含め)」の

   あり方を根本から見直すことに尽きる。東電という会社の株主総会が

   どうかというレベルではなく・・・・。

   

   

   

   

   

   

ミクロとマクロ

   以下は、先にこのブログで触れた「ある学者の意見」の追記である。

   個々人(ミクロ)の意見・要望の段階では、確かに妥当なものであったと

   しても、それを全体(マクロ)の政策として取り入れると、初期の期待値に

   反する結果となる、という例として「歩道橋」を取上げたが、後日ある人

   から「そういえば本四架橋もそうだ」と貴重な意見を賜った。

   なるほど分かり易い好例であつた。

   各々地元住民・政治家等の建設趣意は、至極もっともな論拠もあり、

   それぞれ妥当な要望と認められ取上げられるのだが、その結果

   本州、四国間に3本の橋が掛けれれたという次第である。

   そのことがある時期様々な分野で問題にされたことがあった。

   勿論時代背景も寄与していたのであろう。今の経済・財政状態では

   ありえない政策決定であった。

   造られてしまえば、全てが完了・一件落着である。

   その後の費用対効果も、収益(損失)状況も蔭が薄くなる。

   ある種の宿命的結末である。

   国民(市民)の声を反映して政策実現化を図る政治家には

   実力政治家として一定の評価が下されるし、実績を重ねることは

   立派なことではある。

   ただそのレベルだけでは、一流の政治家とは言えない。

   一流の政治家とは、個々の意見、要望をマクロベースで反すうして

   適否を判断する能力を有する人達のことである。

   ただ地元の要望に応えて橋や道路を造るレベルではなく、時として

   マクロ的見地から地元を説得する勇気を持つ人達のことである。

   ミクロとマクロ、言いたかったのはそんな事であった。

   

   

   

省エネ・節電

   少し考え過ぎなのか、過敏過ぎなのか、昨今の「節電」についてである。

   一人暮らしの老人が、節電に協力(?)して、極力冷房をつけるのを

   我慢されていることが話題としてニュース番組などで聞くと、なんだか

   落ち着かない心持になるのである。

   「暑い時は、冷房位付けたっていいじゃないか」

   そういうことをおおやけの場では言ってはいけない空気が、いつの間にか

   出来上がっているらしい。

   なんだか「欲しがりません、○○までは」 国民総節電運動の様相に

   なってきた。

   決して「節電」の主旨を理解していないわけではない。

   個人的には、節電に心掛けることにやぶさかではない。

   されど・・・なのである。

   各家庭も15%節電のご協力を、と言われて無視するほどの反抗期

   でもないが、従来、贅沢三昧、煌々と無駄に電気を浪費していた

   「ネオン街」や、「24時間テレビ放映」などの大口消費者にまずメスを

   入れ、徹底的に無駄な消費をゼロにすることが先決である。

   なんだか、財政赤字対策、大口のところほど、タブー視されメスを

   入れない「手口」に良く似ているではないか。

   我々、個人生活者は従前から、電気、ガス等の使いっぷりは

   慎ましいものである。

   (セレブのご家庭の状況はよく存じあげないし、数が集まれば一定の

   比率を構成すること位は承知しているが。)

   それにしても、一人暮らしの「冷房」なんて如何ほどのものなのか・・。

   市の図書館では、節電対策から、今夏「節電休館日」を設けるらしい。

   避暑のための公共施設利用は本末転倒だが、真夏の電力ピーク時、

   地域公民館で各種イベントを企画し、住民を集めることによって

   各家庭での節電を図るという私のアイデアは「素人考え」だった

   ようだ。

   それにしても数日の図書館休館で如何ほどの効果があるのだろうか。

   なんだか横並び・一律行政の結果としか思えないのだが・・・。

   いずれにしろ、一人暮らしのご老人、どうか暑い時には

   気兼ねなく冷房を付けてください。

   それ位は、今の政府だってきっと許してくれる筈です・・・。

   

   

   

   

   

   

指揮官の感性

   6月4日のこのブログで、、都知事のコメントについて触れた。

   首相の「一定の目処がつけば・・・」の発言に対するその時期についての

   コメントについてであった。

   「一定の目処というのは、2年先、任期満了だよ、決まってるよ」と

   いうものであった。

   その時点では、「軽いノリ」で、面白い発想、と取上げたのだが、

   その後の首相の言動からは、もしかしたら・・・「任期満了」の意図?

   と、真実味を帯びてきたから、なんとも不思議な感覚である。

   どうやら我々庶民感覚のモノサシでは計ることの出来ない世界で

   あるらしい。

   ところで最近ある事で、「キスカ島撤退作戦」を読み返す機会があった。

   太平洋戦争中の、昭和18年、アッツ島全滅に続き、危機目前の

   キスカ島において、連合軍に包囲された守備隊6000名を無傷で

   救出させ、「奇跡の作戦」といわれたものである。

   その内容はさておき、その時の指揮隊長「木村昌福」についてである。

   (戦後、映画にもなり、三船敏郎が演じている)

   よく知られている通り、彼は最初の実行時、成功の条件整わずと

   判断し。(特に霧の状態)途中で引き返しを決断している。

   その事によって、上層部を初め周りから非難轟々の嵐を浴びること

   になる。

   当時大切な石油を無駄使いしたこともあって、「臆病者」「卑怯者」

   とまで言われたらしい。

   それでも彼は自らの信念に基づきその批判に耐え、次の機会を捉え、

   見事1時間弱で全員の救出に成功させた。

   島が「もぬけ」になったことを、数日連合軍が気付かなかったという

   記録も残っている。それほど見事な撤退作戦だったという事なので

   あろう。

   また、もし第一次の作戦時期に強行していれば、守備隊も含め

   全滅していただろうというのがその後の検証結果となっている。

   後日談だが、彼はこの功績についてほとんど触れることなく、

   ひっそりと暮らし、家族もそのことを詳しく知らなかったという

   エピソードが残っている。

   わが国にも、かってこのような「指揮官」がいた・・・という話である。

   

ある学者の意見

           「合成の誤謬」とは、一人ひとり(ミクロ)が夫々

           正しいと思って行うことが、合成されて全体(マクロ)

           になると必ずしも意図した結果にならないという

           経済学用語である。

   津波防災学で著名なある学者の、津波に対する防災コメントをある

   新聞で読んだ。

   従前より、三陸地域で、津波防災に取組んでおられる教授である。

   「沿岸に避難タワーを」という見出しで、内容は「高齢者や障害者は

   高台まで避難できない場合が多く、すぐに逃げ込む事のできるタワーを

   沿岸部に造るなど、弱者を守る施設整備が重要・・・」というものである。

   学者の意見として、反論の余地なく、正論である。

   確かに津波対策として、沿岸部にそういうタワーがあれば、多くの人が

   助かり、弱者救済、防災対策として有効な手立てであることは違いない。

   唯、問題がないわけではない。

   それを国・地方行政の施策のレベルとして検討した場合はどうだろうか

   タワーを造ったとして、それを活用できるのは、精々周囲数百メートル

   の住民がいいところ、そこまで辿りつくのも大変である。

   ということは、たとえば延々と続く三陸沿岸部の何処に、如何ほどの

   タワーを造れば、「防災対策」になりうるのか、という疑問が生じる。

   専門家の意見は、意見として傾聴に値するものであり、今後そういう

   防災施設を作る市町村が出てくるかもしれないが、果して国、地方

   行政としてこれを取上げ、施策として実施することは容易ではない。

   「合成の誤謬」の真の意味合いと少しズレるが、個々(特定の地域)

   には有効であっても、それを全体のレベルに拡げると「実現化困難」

   が有り得るのである。

   それを実現化させるのが政治の仕事、という厳しい考え方もある。

   施策は、常に「ミクロ」の意見、要望を、「マクロ」に変換して答えを

   見出すものである。

   したがってマクロ的な発想、構想が不可避となる。

   直接関係ない話だが、一時期、都会の地元住民の要望に応じる

   ままに歩道橋が造られ、多いところでは数百メートル毎という道路も

   散見された。

   それが今、活用されていない歩道橋も多いということらしい。

   これなどもミクロとマクロの調整という悩ましい問題である。

   以上、偶々読んだ「記事」の読後感として・・・。

   

  

   

貴方ならどうする?

   あるBSテレビで、与野党議員が数名出ている(地味な)政治番組を

   何気に見ていた。

   通常このような番組では、議論といっても夫々対立政党の批判(それに

   対する言い訳)を声高に言い合うことに終始するものだが、この番組は

   少し違った。

   司会者が、意図的なのか、議員が他党の批判をする度に、

   「貴方ならどうする?」「貴方ならどうしたい?」「貴方の考えは?」 と

   しつこいばかりに反問するのである。

   こうなると、議員もうかつなことは言えない。

   明らかに発言が、慎重になり、頭のなかで錬っていることがその表情

   からも伺えるのである。

   番組そのものが、いつもと一味違う空気を作りだしていた。

   これが本来の政治討論ということなのであろう。

   「番組作り」からすれば、言いたい放題の「空中戦」の方が、視聴率を

   取れるのであろう、どうしてもそちらの方に流れてしまう。

   そういう意味からもこの番組は一味違った。

   「貴方ならどうする?」

   この問い掛けは、それを見ている我々にも響いてくる。

   「自分ならどうする?」

   そんなことを考えさせられた番組であった。

   

邂逅の妙

   人と人の出会い。ほんの些細な出来事や、偶然の機会で

   人の出会いがあり、それを契機として、一生の友、師弟、伴侶が

   生まれる。

   邂逅とはなんとも妙なるものである。

   明治、大正の師と学生の関係は、学舎だけでなく、気軽に師の自宅に

   押しかけ、馳走の場での師の何気ない言葉が、その後の指針にもなる

   といった類の話はよく目にするところである、

   試験の結果で、「点をもらう」と称する、師の自宅に押しかけての

   救済願い、も珍しいことではなかったようだ。

   寺田寅彦が、その師、漱石との出会いも、熊本第五高等学校時代、

   仲間の救済のため、漱石の自宅を訪問したことが、その後の師弟関係

   の本格的な始まりであった。と寺田寅彦は自らの随筆で明らかに

   している。(因みに本人は東大を首席で卒業した秀才であった)

   その日、漱石は快く会ってくれ、初回から話は弾んだようである。

   双方の相性がよかったのであろう。

   初訪にもかかわらず、寺田は「俳句とはどんなものか」といったような

   ことまで漱石に問うている。

   漱石もこれに対し、誠実に接し、「幾らやっても俳句が出来ない性質

   の人もおれば、はじめからうまい人もある」というようなことまで

   いっている。

   

   後年、漱石の 「落ちざまに 虻を伏せたる 椿かな」という

   俳句から、頭を浮遊させ、椿の花が落ちるときは、たとえそれが

   うつ伏せに落ち始めても、空中で回転して仰向きになろうとする

   傾向に気付き、観察、実験を経て、一定の高さ以上の木から落ちる

   椿に花はその傾向があることを実証し、空気抵抗、花の重心、

   高さと仰向きになる比率、等々検証している。

   このあたり、物理学者の面目躍如である。

   文字通り、寺田寅彦ワールド、物理と文芸のコラボレーションでもある。

   「天災は忘れたころにやってくる」

   というのは寺田寅彦の言葉として伝えられている。

      (実際は、彼の記述のどこにも見当たらないらしいが・・・)

   天災は確かに忘れたころにやってくる。

   そんなことを想い巡らしつつ、何気に寺田寅彦の随筆を手にしていた。

   これもまた書物を通じての1つの邂逅といえるのかもしれない。

   

[想定」の内外

   このところ「想定内」とか「想定外」という言葉をよく見聞きするように

   なった。

   使いかってのいい言葉ではある、

   「想定内」ということで、「俺はそんなことはとっくに織り込み済みで、

   驚かないよ」 というちょっぴり奢りのニュアンスを感じさせるのが

   御愛嬌である。

   ところでこの「想定」だが、広辞苑では「心中できめること」とある。

   解ったようでわからないが、要するに「ある条件や状況を仮に設定

   すること」といった意味のようである。

   したがって、ある事象も設定如何で「想定内」になったり「想定外」に

   なったりするということなのであろう。

   今回の「大地震」「津波」「原発事故」について、「想定内」「想定外」と

   夫々専門家の間で、学術的論争があるが、特に「原発事故」に

   ついて、「想定外」が無責任と批判されているのは、そもそもの

   「設定」が行われていない、あるいは「杜撰」ということなのであろう。

   それはそれとして、我々市民感覚からすると、難しい理屈ではなく

   大惨事、大事故はやはり「まさか、まさか」の想定外なのである。

   地震学者から、何百年前の事例から、同規模の地震や津波が

   起っても不思議ではない、と聞かされても、学問的にはそうかも

   しれないが、それが今、目の前で起ることは「まさか、まさか」

   なのである。

   歴史は「まさか」で満ち溢れている。「まさか」の事が起こるから

   歴史として記録、記憶される。

   「ベルリンの壁」も「ソ連崩壊」も長期トレンドとしてはありうることで

   あったとしても、「今、ここで起った」ことは、あれよあれよの

   「まさか」であった。

   サイコロを振ると1から6までどれかの数字が出る。

   不思議でもなんでもない。

   これが続けて同じ数字が10回続くと、「まさか」になる。

   統計学者は、確率論的にはあり得る、「想定内」とおっしゃる。

   でも我々はやはり「まさか!」とつぶやくのである。

   「想定」も結構難しいものである。

真夏に備えて

    ゴーヤの種を頂いた。

    家人が、2つばかりのプランターに植えてみた。

    暫くして芽が出始め、今10センチくらいの葉になった。

    私も、毎朝その成長振りを観察するのが日課のようになる。

    狭いながらも我が家のウッドデッキを「緑のカーテン」で

    覆ってみるのも、時節柄一興と、ささやかな願いである。

    果して今夏に間に合うかどうか、心もとないことではあるけれど。

06130002

    

政策の連続性

   およそあらゆる政策には、連続性がなければならないと考えている。

   状況に応じて、適宜適切に手を打つ事は必要であるが、それも

   確固たる政策方針に則ることが前提となり、一定の連続性のある 

   基軸に適合したものであるべき、という考えである。

   それは戦略と戦術の関係に置き換えると解り易い。

   新たな戦術を行使する度に、戦略がブレたり、一貫性が無くなるのは

   結果的に勝利に結びつかないものである。

   今、手元に次のようなデータがある。

          生活保護          200万人

          年間自殺者           3万人

          失業者            300万人  (5%)

          非正規雇用        1700万人  (雇用者の約35%)

          ワーキングプアー (年収300万未満)

             ホワイトカラー    1340万人 (44%)

             ブルーカラー     1500万人 (56%)

          国民健康保険料滞納    430万人 (12%)

          国民年金未納者      2700万人 (40%)

   

   なんとも現実を直視するには勇気のいる数値ではないか。

   しかもこれらは、今回の「大震災」とは直接関係ない、それ以前からの

   実態であることを再認識しておく必要がある。

   正しく、社会構造、経済構造のゆがみそのものであり、少なくとも

   短期的、場当たり的な施策、対応では手に負えないシロモノである。

   その長期的な基本政策は、本来、政権が変わろうが、首相の顔が

   変わろうが不変であるべきであり、あえて今 「政策の連続性」の

   重要性を指摘する所以のところである。

   こういった状況下に我々は今回の「大震災」に見舞われた。

   並みのリーダーでは勤まらないことは歴然、としている。

   これらに関連して想うことを1つ2つ。

    「政治主導」と言われだしてから、特に財務省や日銀の経済関係・

   官僚が「表向き」目立たなくなったように感じる。

   現状の経済。金融に対してどう考えているのか、寡聞にして

   私には今1つよく解らない。

   従来のように、彼らの作った設計図に、政治家が丸呑みするのも

   問題だが、、彼らもソレでメシを食っている専門家集団である。

   今こそもっと上手く使わない手はない。

   少し財務省案に寄るだけで、すぐに「骨抜きにされた」と書くマスコミも

   問題である。

   こういう国難の時こそ、政治家は勿論のことであるが、官僚の力は

   大切であり、彼らも省益や私腹を考えている場合ではない。

   城山三郎の「官僚たちの夏」、戦後復興への官僚達の姿を

   思い起こしてほしい。

   「復興構想会議」や各種委員会、会議が立ち上げられ、今後の

   日本を大きく左右されるような重要課題について審議中だが、

   どうしても目先の環境に左右され、上述の「政策の連続性」という

   点が生かされるのかどうか、危惧するところである。

   夫々見識のあるメンバーとは思うが、「復興構想会議」も提言が

   終われば解散する組織である。提言に対する責任や、フォロー

   にも自ずから限界がある。

   ここにも本来の「政治主導」のあり方が問われることになる。

   それよりなにより、肝心の立ち上げた側がもっとしっかりしなくては

   折角の提言も・・・・。

    

   

   

   

       

         

   

世相雑感

   武士道、騎士道華やかな時代には、身の処し方や、出処進退、人として

   あるべき姿などが、小さい頃から「躾」として叩き込まれていた、と

   いうのはよく見聞きすることである。

   その中身の良し悪しは別として、それらの中には、上に立つ者の心構え

   から、いわゆる帝王学のようなものまで含まれていたに違いない。

   昨今、わが国の首相をはじめ、どの分野においても「リーダー」の資質

   能力が落ちている、あるいは人間が「小粒」になったという声を聞く。

   これは一体何故なのであろうか。

   「戦後教育」云々と大上段に構える「基礎知識」は持ち合わせていないが、

   少なくとも、「幹部候補生」教育という発想はなくなり、格差を無くし、

   みんな仲良く横一線、自由と個性尊重で、世の中全体に一本スジの

   通った「躾」や「教え」が消えかかっていることが、多少関係があるのか

   しれない。

   これがいいとか悪いとかではない。

   武士道華やかな時代か良かったという懐古でもない。

   どうやら世の中というものは、あれもこれもと全てがプラスに働くことは

   なく、絶えず光があれば蔭が出来るという少し寂しい感想である。

   首相が1年毎に替わるのも、まあ変な独裁者が出てきてこの国を

   掻き回すような時代よりはまし、と達観?しようとするが、

   流石に「なんとかせい!」と言いたくなるこの頃である。

   ー「出処進退」は、「教育」によって育まれるというより

   人間としての本源的な心根に左右される。ー

   

  

激変の夏

   まだ読んでいないが、「拙者は食えんーサムライ洋食事始」という

   本がある。

   幕末から明治初期の頃の、はじめて「洋食」に出会ったサムライたちの

   苦渋、悲哀を綴った本とのことである。

   どの時代においても、長い人生の間には、世の中の流れになかなか

   ついて行けず、様々な泣き笑い・・に遭遇することがあるものである。

   今年の夏、スケールは極く小さいが、同じ様なことが起こる気配がある。

   省エネ、節電ということから、ビジネスの場においても「クールビズ」が

   本格的、飛躍的に伝播するという予想である。

   なにせ「横並び・徹底」がお家芸の日本の事、なだれ現象が起こる

   事は充分考えられる。

   確かに真夏の炎天下、汗だくのスーツ姿のビジネスマンをよく見かけた

   ものであるが、それに比べればよい方向への流れではある。

   すでにアロハシャツはどうか、Tシャツはどうか、ジーンズは、短パンは

   と、その許容範囲について鋭意検討がなされているようだ。

   方向としては賛成だが、果してビジネスの場で短パンは如何なものか。

   旧ビジネスマン(?)としては抵抗がある。

   「ON」と{OFF」の気分の切り替えなどネックはないのだろうか。

   そういえば、ビジネスの場で何故「リゾートスタイル?」とチクリと

   皮肉る論評も目にした。何事も行きすぎはまずい。

   リタイアーした身で、これ以上トヤカク言うこともないが、果して

   現役熟年諸兄は如何なさるのであろうか。

   失礼ながら「現代社会学(?)」の興味ある観察テーマである。

   案外、企業戦士(サムライ)のなかには、リゾートスタイルなぞ

   とんでもない「拙者は着れん」と武士の矜持を守る人も多くいるような

   気もする。

   いずれにしろ、今年「クールビズ本格事始」の夏である。

 

   

口ずさむ歌

   今、誰もがそのメロディを知り、日常の場で自然に口ずさめるような

   歌がすっかりなくなってしまった。

   ある専門家に言わせると、今、流行りの歌は日常とはかけ離れた

   「非日常の歌」が主流だからということのようである。

   非日常とは、たとえば「東京ドーム」とか「武道館」とかいった特定の

   「場」で熱狂的に受け入れられる歌が今日的にいう流行り歌で、

   いわば非日常の空間だけに通用する歌ということになる。

   このためどうしても作り手(歌い手)は、「歌詞」よりも「視覚」により、

   また強烈なリズム感覚と過度な「りきみ、うなり、叫び」によって観客に

   迫り、観客サイドも、一種の連帯的な雰囲気の中で酔えるような歌を

   好む傾向となる、とのことである。

   

   そのような非日常の特定の場での流行り歌が、ジワジワと各層に

   拡がり、日常的な生活の場で、たとえば家庭の主婦がキッチンで

   口ずさむということになりにくいのは道理である。

   関係者の間にも、このような風潮に疑問を感じ、なんとか以前の

   ように老若男女誰もが口ずさめるような歌を・・と頑張っている人も

   いるようであるが、世の中の大きな流れの前には理没しがちである。

   このようなことに触れること自体、旧い人間の「郷愁」ということなの

   であろうか。

   過日、ある大ホールで吹奏楽の公演を聴く機会があった。

   その折、ラストナンバーで童謡「ふるさと」が演奏された。

   皆さんどうぞお唄い下さいとの声掛けで、口ずさみから段々大きく

   拡がり、やがて場内大合唱となり・・・大拍手で締め括られた。

   まだこうして皆が唄える歌があったのである・・・・。

   今の小さい子供達が大人になる頃にも引き継がれているのだろうかと

   暫し考えていた。

   因みに、この「ふるさと」  私はいつも3番の「歌詞」に小さな

   感動を覚えるのである。

   ストレートでなんの技巧もないシンプルなところに魅かれる。

             こころざしを   果して

             いつの日にか  帰らん

             山は青き    ふるさと

             水は清き    ふるさと

   

   

   

   

   

   

  

   

2つのコメント

   6月4日 朝から清清しい晴天である。

   国会周辺の「視界ゼロ、曇天模様」とは大違い。

   さて、今回の「ドタバタ劇」に対する、メディア等のコメントは、

   ほとんど「想定内」 似たり寄ったりというところ。

   そんななかで、一寸気が利いたというか、目に付いたのが次のモノ。

   1つは、都知事の次のコメント。

       一定の目処ということに関して

       「一定のめどってのは、正確に言ったら2年先だよ。

        任期満了だよ、決まってるよ」

       というもの。 いかにも政治家らしい着想。

       一寸面白いではないか。

   あと1つは

       何人かの議員のブログ等を拾い読みしたが、

       夫々、各党の見解の域を出ず、似たり寄ったりのなかで

       ある議員のそれは、全く今回の件には一言も触れないで

       別のことを書いていた。

       逆に触れない事が、1つの「意思」を表示しているようにも

       思われ、かえって印象に残った。面白いものである。

  

   

 

   

   

曖昧な世界

   今回の「不信任案国会劇場」の独断的感想は、

   いかにも「ロジック」が苦手な、日本的な「落とし処」であったという一言。

   よく言えば、奥ゆかしくも麗しい「感覚的」決着の付け方である。

   一国の総理の「目処が付いたところで退陣」というニュアンスの発言で

   「ほろり、ころり」と一応の収束である。

   本来、総理の任期途中での進退問題は、あたかも公定歩合と同様、

   「結論」しか言ってはならない。やるか止めるかである。

   国会という公の場で、「目処がつけば」という前提をつけるとしても

   退陣(予告)を表明した総理に対し、国内はもとより国際社会は、

   どう対応するのだろうか。

   経済分野でいえば、日銀総裁が「かくかくの状況になれば公定歩合を

   上げる(下げる)」と予告するに等しい。

   経済と同様政治の世界も一刻一刻を争う厳しい世界である。

   そもそも「原発事故対応の目処」とはどのような状況を言うのだろうか。

   少し考えただけでもその曖昧さが門外漢でも解る。

   議員諸氏も、「不信任案」に対して、本当に自分の「頭」で考え抜いた

   人が何人いただろうかという疑念すら持ってしまう。自分の頭で

   考えた人なら、曖昧な点をはっきりさせたいとするに違いない。

   一頃、「指示待ち新入社員」という言葉が流行ったが、なんだか

   今回の動きを見ていると、チルドレンと称される大半の議員が

   「指示待ち議員」に見えてくるというのは言い過ぎだろうか。

   一方、不信任案を提出した野党側にも、論理的に無理なところが

   あった。将棋でいう「ムリ筋」というやつである。

   この難局では、与野党垣根を越えての「総合力」での対応を不可欠とし

   そのためには今のリーダーでは駄目という主旨は、それなりに

   国民の感覚に呼応するところもあるが、不信任案が通るためには

   民主党の「分裂」が前提となる、という論理的矛盾を抱える。

   その対処としては、具体的な構図(可決後の姿)を示すことが必要

   だが、それがないままに先走ったという腰砕け感が否めない。

   「6月2日の変」 こんなところが思いつくままの感想である。

   

   

   

薔薇の彩り

   今年はなんだか落ち着きのないままに、

   季節だけが慌しく過ぎていく。

   桜も、新緑までも、いつものような華やかさを控え、

   目の前を通り過ぎるようで、ふと気が付くと早や6月を迎えている。

   このような中にあって、雨模様の谷間、薄曇りではあったが、

   5月の末、多摩丘陵の「ばら苑」に出掛けた。

   春秋の年2回、ほんの短い期間だけの開園ということもあって、

   皐月晴れには程遠いが、人出も時とともに多くなってくる。

   それでも高台からのばら園一望から、一輪毎の各種各様の彩りまで

   ゆっくりと鑑賞することが出来た。

   いつも思う事ではあるが、「自然はかくも美しい色彩を、しかも

   極く自然に作り出すことか」と感嘆するばかりである。

   多くを語ることもなし。唯その純な色彩に暫し染まるだけである。

    05310007_4

     05310008_4

   05310006_2

« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »