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2011年8月

視界ゼロ

     視界ゼロ 

        といっても、政治絡みの話ではない。

     此のところの急変する気候の谷間、夏休み最後の日曜日、

        といっても、私には関係ないが・・・、28日(日)

     富士山に行って来た。

        といっても、頂上まで登ったわけではなく、5合目まで

        それも車で到達(?)した、という程度のことである。

     今までは眺望する山、今回始めての富士山であった。

     夏の山気候のこと、生憎視界ゼロの状況で、風景写真は不可。

     時節柄、駐車場も満車状態で、山頂ルート入り口周辺は、

     若者達中心に、原宿か渋谷状態。

     パノラマは想像の世界ではあったが、標高2千数百メートルの

     雰囲気はそれなりに味わった。

     帰路、石和温泉で汗を流し、巨峰の食べ放題に立ち寄ったりと

     今夏の名残りの1ページを過ごすことが出来た。

     家に戻ると、ニュースは代表戦一色。これもまた今夏の現実である。

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一呼吸の妙味

   あまり「疑い深い」のも、品性を欠くきらいがあるが、世の中には

   悪意はなくても、真実とはかけ離れた情報が、大きな顔をして

   まかり通るところがあるだけに、無防備に受け入れてしまう事にも

   問題がある。

   時には、一呼吸置いて物事を凝視することも必要である。

   他愛のない例としては、ほんの一握りの有力者の発言が、

   「アメリカでは・・・」と、あたかも同国の総意であるが如くに報道される

   事は稀ではない。

   一部の地域で流行っていることが、「今、アメリカでは○○が大流行!」

   とくる。全く油断が出来ない。

   コレが、国際問題、防衛問題であれば、「他愛のない」と言っていられない。

   

   国内においても、もし前原議員が総理になれば、「献金問題で野党は

   てぐすね」とくる。

   野党の議員が全てそう考えているようなイメージが出来上がるが、

   実際、「今、そんな事がメインテーマか」と一笑する自民党議員を

   具体的に知っている。

   個人ベースでは、「今、そんなことで国会を空転させている時か」と

   憂いている人が圧倒的に多いと思われるが、「組織」が熱を持つと

   1つのフレーズが一人歩きし、空気(風)を醸成するのも、現実の

   政治の世界であるようだ。

   「政局より政策を」というのはどう考えても「正論」である。

   この「正論」をしたり顔で、唱えている人ほど、結局「政局」を

   滔々と論じていることに気付いていないことが多い。

   少しも油断ならないのである。

   まして況や、マスコミという「やから」は、本能的に「政局」になれば

   なるほど「張り切る」体質があるから厄介である。

   時には、一呼吸置いてじっと耳を傾ける事も必要。

   結構、「なんか変!」にぶつかる事が多いものである。

   

   

   

鹿威しの庭

   高校時代、「史跡研究会」というサークルに席を置いていたことがあり、

   初めてそのメンバーで訪れたのが京都 「詩仙堂」であった。

   「鹿威し」なるものを知ったのもその折である。

   昔人は、風雅なものを考え付くものである。

   その後も何度か訪ねており、当時は 大徳寺塔頭の「高桐院」(ガラシャ

   夫人の墓塔がある)、哲学の道の「法然院」 と この「詩仙堂」が私の

   「お気に入り」であった。

   後年、イギリスチャールス王子、故ダイアナ妃もここを訪れており、特に

   ダイアナ妃はいたく感激された由である。

   この「詩仙堂」は、徳川の家臣であった「石川丈山」が、紆余曲折を経て

   59歳の時に、この地に造営し、その後90歳で亡くなるまでの30年間、

   終の棲家として過ごしたところである。

   書、詩、茶三昧の風雅な文人生活であったといわれている。

   さて、ところで徳川の一家臣であった丈山が、このような地で、

   趣味三昧ともいえる隠遁生活をおくるのは、それなりのバックボーン

   がなければ・・・と考えるのは極く自然なことである。

   経済的裏付けである。

   巷間言われているのは、徳川からカネが出ていたという説である。

   いわゆる、京都(天皇)の動静監視の役目としての資金である。

   丈山、及び「詩仙堂」を取り巻く状況を鑑みるにそれなりに説得力の

   ある説とはいえる。

   まあ長年の風雪を経て、今そのような歴史の断片は兎も角として、

   「詩仙堂」は、四季折々の風情で、常に訪れる人々を迎えてくれる。

   

   

   

   

複眼思考

   「東京新聞、結構頑張ってるじゃないか」と感じていた矢先、

   ある先輩からも「今、東京新聞が面白い」と指摘され、意を強くした。

   お互い「関係者」でもないが、やはり「違いが判る」人には解るのである。

   偶々ある国会議員の「ツィッター」を覗いていたら、全く同じ論調で

   「最近の東京新聞が面白い」と、議員の間でも静かなブームになって

   いると記されていた。

   主力全国紙しか目を通していない人達にはこの「面白さ」は解らない。

   さて、この東京新聞 19日の夕刊。

   鷲田大阪大学学長の一文(「原発議論、混沌の理由」)が秀逸であった。

   要旨は、同大学院での共通ゼミナールで、BSE牛肉が問題になった頃、

   「米国産牛肉の輸入再開の条件」というテーマでの討論で、各々 医学

   経済学、政治学、文化人類学の院生が、夫々専門的見地からの主張を

   するのだが、問題が拡散するばかりで、結局、重要な事は、「専門の

   知識ではなく、それらをまたぐ(複合的な)この問題について、どのような

   判断を下すか」である。と指摘される。

   昨今の原発問題の議論についても・・・と展開され、「専門家」としての

   あるべき姿を述べられる。

   原発問題についての専門家達の主張は、自らの専門知識を

   背景とした「アレかコレか」二極対立だけが目立つ議論が多く、

   そんななかでの同氏の見解は正しく 「複眼思考」の論調と感じ入った。

   そういえば。「東京新聞」云々も、数紙比較して、はじめてその

   「面白さ」を感じることになる。これ自体は極く些細なことだけれど・・・。

節電避暑地

   残暑とは名のみの、猛暑続きであるが、なんとか今週末には一息付く

   ということらしい。

   流石にこの猛暑続きでは、「節電」のトーンも心なしか後退し、

   「熱中症」対策キャンペーンが盛り上がってきている。

   たとえば東京都荒川区の「街なか避暑地」や、千葉県市川市の

   「節電避暑地」など、公共施設の避暑活用を積極推進している。

   ここにきて、私の「思い付きアイデア」(6月25日時点でのブログ)が

   息を吹き返した如くである。

   別に自慢するほどのことではない。 要は「視点」をどこに置くかという

   ことではないだろうか。

   「行政は市民の為に何を成すべきか」 この立ち位置でモノを考えるか

   どうかだけである。

   「節電」のために、図書館を「節電休館」する市町村もある。

   行政はこの決断に如何ほどの苦悩の検討を費やしたのだろうか。

   同じ良かれとする施策も真逆の結果を成す。

   言いたかったことは、そこら辺のことである。

 

   

   

  

   

   

   

  

   

  

加齢なる人生

   社会的な政策立案や、個人の将来計画も、「どうする」という側面だけ

   では「片手落ち」となる。「どうなる」という前提とのバランスを踏まえた

   アプローチが必要であるようだ。

   「どうする」は主体的行動、実行であり、「どうなる」は客観的状況、

   与件とも置き換えられる。

   テーマによっては「自力」と「他力」ともなる。

   原発問題も、「どうする」という議論だけでは、今一つ信頼に欠ける

   ところがある。

   少なくとも、信頼しうる客観的状況、データを「共有」した上で、

   それを前提とした「どうする」という議論にならないと、説得性が弱い。

   意図的な隠蔽かどうか解らないが、我々には肝心な情報、データが

   後追い的に流される傾向があり、これでは福島県人をはじめとして

   不安がつのるばかりである。

   ところで個人的な事柄であるが、

   以前より、どうもパソコンの字が読みづらくなってきたので、

   眼科で診てもらうと、「白内障」との由。

   様子を見て、手術をすることになる。

   加齢という客観的事実の前では如何ともし難く、「どうする」「こうする」

   という生活基盤も若干修正を余儀なくされる。

   考えるに、情報の大半は、目から得ており、見づらくなるようでは

   生活上、致命的である。(パソコン、新聞、書物、テレビ等)

   暫くは酷使しないよう、このブログもマイペースでボツボツと

   記している次第である。

   因みに眼科で貰った目薬には「加齢」という字は無く、「老人性・・・」

   と記されている。まあいいか、客観的事実を素直に受け入れ、

   「加齢なる人生」を歩むことにしたい。

  

   

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