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2011年10月

地縁の「紅白餅」

   東京のような都会では、生まれ育った土地にそのまま住み続けて

   いる人の方が稀で、ほとんどの人々は様々なところから、一寸した

   「縁」でその街に住むようになる。

   そして、大概の地域はそのような人々によって形成されている。

   さらに、多くの仕事人は、朝早く出掛け、夜遅く帰る生活の繰り返しで

   住期間に関わらず、案外地元との接触(地縁)は、少ないものである。

   私自身も全くその典型であったが、リタイアー後、一寸したきっかけで

   地元自治会の役員を引き受けることとなり、そのお蔭で今では

   様々な分野の地元諸氏と交流をさせて頂くこととなった。

   比較的、歴史的、伝統、に恵まれた土地柄でもあり、地元長老から

   酒を酌み交わしながらの昔話や、様々の体験談をお聞きするのも、

   リタイアー生活者にとっては、膨らみのあるひと時である。

   一方で、まだまだ「地縁社会」というには、程遠いところもあり、

   ご他聞に漏れず、会員の少子高齢化問題も横たわっている。

   さてその自治会であるが、先達のご苦労の積み重ねもあり、

   今年50周年である。

   世帯数250ばかりの小さな自治会ではあるが、毎年諸行事として

   「自治会まつり」も行っており、今年、恒例の「餅つき」では、

   「紅白餅」を会員にお配りした。

   無縁社会といわれる、特にこの東京の都会で、「自分たちでついた餅を

   自分たちで食べる」ことだけでも良しとすべきかもしれない。

   昨今よく聞く「絆」という大袈裟なことでもないが、この「紅白餅」の

   精神が伝わり、「道であえば会釈を交わす」きっかけの第一歩にでも

   なれば餅様々である。

10310002               昨日の少々固くなった「紅白餅」

   

   

経験者は語る。その2

   自転車のルール、マナーの見直しの徹底そのものには賛成である。

   ただ今回の問題提起の仕方なり、打ち出し方が如何にも拙い。

   恐らく、今回の通達の背景には、まず啓蒙からという思惑から

   スタートさせたものだろうが、これを受け取る各警察本部(地域警察)は

   大変である。混乱が目に見えるようである。

   問題点は多々ある。 1つ取上げると、

   歩道での自転車走行は、幅3メートル未満の歩道はこれを許可しない、 

   とある。

   あくまで原則なのであろうが、如何にも片手落ちの論理である。

   本来の思考方法では、「自転車は車道」 を徹底するのであれば、

   歩道の幅を云々するよりも、「車道の幅(余裕度)」に照準を合わせないと

   論理的な説得に欠けることになる。

   「走行できる余裕(幅)のある車道では、自転車は車道を走行する事」を

   徹底し守らせる、ということから始めるのが本来の通達のあり方であり、

   「道理」というものである。(専用道路を順次作って行く事とも合致)

   車1台でギリギリのような車道では、自転車走行そのものが物理的に

   不可能であることからも、この問題の基準は「歩道の幅」ではなく

   「車道の幅」から順次徹底をスタートさせないと混乱するばかりである。

   「思考」のアプローチの問題である。

   恐らくこの検討段階で、「もぐらたたき」の菌に感染したのであろう。

   歩行者と自転車の接触事故は減少しても、自転車と自動車の

   より大きな接触事故は果して・・・・。

   文字通り「もぐらたたき」の典型的なパターンである。

   

   

経験者は語る

   「年間1200キロ」  というのは、大体私が1年間に自転車で走行する

   距離である。

   一見多いようにもに思われるが、毎日のように近場であれば大概

   自転車で出掛けているからそれくらいにはなる。

           1日  平均5キロ (片道2500メートル)

           月に20日間乗るとして  100キロ

           年間では  1200キロ というわけである。

   天気の良い日、気が向けば多摩川のサイクリングロードを

   「普通の」自転車で走っていることもある。

   エコとか、運動とか 「~のため」といった立派な理由などないが、

   それでも常時自転車で街を走っていると、結構様々なことを発見し、

   社会観察にもなる。

   自動車の場合は、たとえば対向車を待つと、「返礼」がかえってくるが

   自転車では、そうとは限らない。

   立派な母親風の奥方が、目礼すらしないで通り過ぎたり、逆に

   今風の若者が、案外「スミマセン」と声を出して通り過ぎて行く。

   人間観察にもなるのである。

   ところで、朝刊1面に、「自転車は車道。徹底」と出ていた。

   確かに、自動車に比べてもルール、マナーの点で、「ラフ」なところ

   があり、昨今、ブレーキのない自転車が横行しているとかで、

   自転車のルール・マナーの見直し、徹底の流れには賛成である。

   ただ、経過措置や、例外規定があるとしても、「車道が原則、歩道は

   例外」の徹底といわれても、戸惑うばかりでいま1つしっくりこない。

   道路事情からいっても、自転車に乗る立場としては、中途半端に

   自転車で「車道に乗り出す」のは危険という実態がある。

   「歩行者の安全」ということも当然よく理解するところであるが、

   道路によっては、車と自転車を同じ分類(車道)で取り扱うことには

   無理があるところが多い。

   個々の道路環境で大きく異なり、一律に規定することには返って

   危険が増すという懸念も持つ。

   だからといって、警察の「裁量」で個々に警告、指導、補導という事に

   なるのも困りものである。

   自転車くらい、「顔色」を伺うことなく気軽に乗りたいものである。

   と、経験者のとりあえずの初(所)観である。

   

   

   

わが国の行く末

   「わが国の行く末」とは、大きく出たものだが、

   ここに、ある機関の人口予測データがある。

           2050年    8800万人

           2100年    5000~6000万人

               (移民計画等の変動除外)

   経済予測の場合は、5年、10年先どころか、1年先も「視界ゼロ」に

   近いが、人口予測は、それなりに誤差が生じるとしても、その方向性は

   ほぼ信頼できるものである。

   と言うことは、100年先には、わが国の人口は今の半分になっていると

   いうことである。

   頭(理屈)ではわかっていても、果してその時のわが国の様相がイメージ

   出来るであろうか。

   真面目に捉えれば、現在「侃々諤々」議論し、迷想している様々なテーマ

   が、全て根底から崩れてしまうような変幻を呈することになる。

   昨今、この人口動態を意識した議論を見聞きすることはまずない。

   皆が皆、目先、今日、明日のことで頭が一杯なのである。

   たとえば「年金問題」

   そう言えば数年前、「100年安心の・・」と聞かされたことがある。

   ここまで風呂敷が大きくなると、「思考力」を鈍らせてしまう妖術

   (たぶらかし)の如しとなる。  

   実は、人口予測にも「要慎重」の入力データがある。

   「平均寿命(余命)」である。

   信長の「人生50年・・・」の時代から、昭和まで 少なくとも歴史的に

   裏の取れるこの400年、日本人は「人生50~60年」で推移した。

   ところがこの30年ばかりで、あれよあれよという間に「人生80年」で

   ある。

   もし、100年前の人口予測があれば、大きな誤差が生じることに

   なっていただろう。

   この事象からも、如何にこの20~30年、激変の時代であったかが

   人口動態からも読み取れる。

   逆に言えば、人口動態の変化が、如何に経済、社会現象に影響を

   与えるかということにもなる。

   今日の混沌とした社会の舵取りには、人口動態(予測)が

   重要な「羅針盤」の1つとなると考える所以である。

   「人口問題」をベースにしないで、今日のあらゆるテーマ(課題)の

   検討、長期的な方向付けは困難とも言える。

   

   

   

   

  

天空の星々

   実は、隠れ「プラネタリウム」ファンである。

   星座や天体に関する知識は、小学生以下と自認しているが、

   それでも、年に1度位はふらっと訪れている。

   人工とはいえ、ドームの天井に拡がる星々。

   その異空間に身を置く・・・ それがなかなかのものなのである。

   星座の名前を覚えようとか、知識を得ようとかではなく、

   ただぼんやりと、その空間に身を置くだけのことなのだが。

   世界最大のプラネタリウムは、「名古屋市科学館」のもので、

   直径35メートルの由である。

   第2位が中国にあり、第3位は「愛媛県総合科学博物館」である。

   件数ではアメリカに次いで第2位だが、製造シェアー、技術力に

   おいて、日本は立派な「プラネタリウム大国」である。

   さて、世界第4位の大きさを誇る「多摩六都科学館」のプラネタリウム

   (直径27.5メートル)は、平成6年より17年間稼動していたが、

   この10月末で、機械装置の「引退」を迎えることとなった。

   (2012年7月より新しい機械で再開)

   今、「引退興行」ということで、お別れに出掛けた。

   天空の星々を仰ぎ見ながら、ふと、機械にも「命」があるのか・・・と

   改めて思ったりしていた。

   

   

   

東京を歩く

   JR信濃町から (赤坂、六本木経由) 地下鉄神谷町まで、直線距離

   では3K程度だが、道なりでは4~5Kといったところである。

   大都会ぶらり歩きとしては、東京のなかでも上位にランクされる

   散策コースではないかと思っている。

   以下は、ある日のこの散策を写真で綴ったものである。

   では早速 信濃町からスタート。

   10180002

           信濃町駅すぐの歩道橋から外苑東通りの眺め

           右は神宮外苑、左 明治記念館

           イチョウが色付くころには一段と映える景観である。

10180005 

            外苑東通りを左折 赤坂御用地(東宮御所)の

            最初の門が見えてくる

Photo

           東宮御所を右手に。 晩秋の頃には特に

           最高の散歩道である。

Photo_2

           安鎮坂。東京の数ある坂のなかでもなかなかの

           風情である。

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           迎賓館前に。 この日は生憎の曇り空。

Photo_4

           迎賓館前の広場(小公園)のベンチで小休止。

Photo_5

           遠くに見えるホテルニューオータニに向けて

           再スタート。

Photo_6

           ホテルに到着。「あの帽子・・」(森村誠一)も健在。

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           疲れを癒すためにホテルの庭で目を休める。

       

      あまり知られていないが、ホテル内に「ニューオータニ美術館」

      がある。   (写真はなし)

      「池大雅展」 入館する。  (本日 小生は無料なり)

      その後 次のホテルオークラを目指す。

      赤坂見附、赤坂、六本木経由となる。

      どういうわけか、このあたりで散策をストップし、横道に逸れて

      しまう懸念あり、本日は真面目に歩き続ける。

10180022

           オークラ別館に到着。

           大倉集古館  入館   (本日 小生は無料なり)

Photo_8                    集古館の入り口 

         いよいよこの散策も最終段階、オークラを出て、

         知る人ぞ知る、ビルの谷間のオアシス 城山ヒルズの

         遊歩道で神谷町へ。

         地下鉄神谷町駅で一応今回の散策のゴールとする。

         お疲れ様でした。

   余禄 途中での写真2枚

 10180016                 ホテルニューオータニの一角

10180023

          大倉集古館の並びにあるスペイン大使館。

          カメラを向けている時、偶々中から若いスペイン女性

          が出てきて「にっこり」  これが本日最後の「余禄」!

                                          

川の源流

   お国自慢ならぬ地元自慢めいた話になるが、

   東京都を流れる一級河川の源流が、わが地元にある、と言うと

   御存じなかった方は一寸驚かれる。

   といって、我が地元は決して山奥の辺境の地でもないが、確かに

   あるのである。

   「野川」は、多摩川水系の一級河川である。

   この川は、国分寺市にある「日立中央研究所内に源を発する。

       源流からの流れを概観すると次の通りである。

         源流  →  真姿の池湧水群の湧水を合わせ →

         国分寺崖線(はけ)  →  武蔵野公園  →

         野川公園  →   三鷹  調布  世田谷  →

         二子玉川  →   多摩川に合流

   因みに 真姿の池(湧水)は、全国名水百選に選ばれており、

   国分寺崖線(はけ)は、大岡昇平の「武蔵野夫人」では、

   「土地の人はなぜそこを「はけ」というのかも知らない」という

   書き出しからも、世に知られている。

   源流のある、日立中央研究所では、春、秋 の2度 春は桜

   秋は紅葉の頃に 一日地元民に園内を開放する。

   回遊式の池の周りの、桜、紅葉は夫々見事なもので、さらに

   源流を見にマニア(?)の人たちも遠くから来られると聞く。

   いずれにしろ、この都会!に河川の源流がある、というのも

   それなりに話題の1つとなり、一興でもある。

04050012                  (研究所内  野川の源流)

04050017                  桜の季節  研究所内 池の景観

 

11300028              左が研究所 前方向に国分寺駅

              決して辺境の地ではないのである!

                     

「念」のため

   今、医院や病院の待合室には「念のため患者」が溢れているという。

   「念のため患者」とははっきりとした病人や怪我人ではなく、仕事や

   日常生活を通常に行っている人が、文字通り「念のため」医者に

   診てもらう、専門医の診察結果を確認したい、とする人たちの総称である。

   いわば「安心」を得るための「念のための通院」である。

   この背景には、情報の発達があるという。

   一見、情報が発達すれば、体調等の知識が得られやすく、「念のため

   患者」は減少するように思われるが、結果は逆らしい。

   情報多寡によってかえって不安心理が助長されることと、症状なり、

   状態に対するアドバイスの情報媒体(たとえば新聞、雑誌の医事相談)

   の活用は容易になってきているが、それらの常套結論は、大丈夫という

   見立てであったとしても、「念のため病院で診てもらって下さい」「念のため

   専門医に相談して下さい」というものが多い。

   指示を怠ると、なんだか精神的ストレスだけが残り、「念のため」医院へ

   という流れが出来上がる。

   一方で、人間誰しも加齢に伴って、どこかしこ1つや2つ「要注意」が

   出てくるものである。

   そのことこそが、「念のため患者」(早期発見等)の最大効用であり、

   本来は「念のため」に行う行為は推奨されるべきで否定されるもので

   ないことは万人が認めるところである。

   ところがここに1つ、悩ましい問題が横たわる。

   「健康保険赤字問題」である。

   赤字問題は、高齢化社会と大いに関連するものであろうが、

   実は、この「念のため患者急増傾向」は、いままで想定していない

   隠れた理由の1つとなってきている。

   正面きって、「念のため患者」に対し、アレコレ言えないだけに

   余計悩ましい問題となっている。

   「念のため患者」の言葉自体一部の人たちにしか膾炙されていない

   のもそのためであろう。

   もしかしたら早晩ボツボツ目にするようになるかもしれない。

   まあ先々どうなるかわからないが「念のため」問題提起して

   おくことにする。

   

  

我慢の剣

   「国語」の先生なら、常識のレベルなのかもしれないが、

   「我慢の剣」 私は深く考えることもなく、その意味するところを

   たとえば、高倉 健が、絶えに耐えた挙句、すっくと立ち上がり

   「ドス」を懐に 単身悪の根城に・・・という「悪を懲らしめる正義の剣」

   というイメージで捉えていた。

   ところがコレが、全く違うようなのである。

   人を軽蔑したり、我意を張ったりすることが、自他をひどく損なうことを

   「剣」にたとえていう意。というではないか。

   颯爽とした姿どころではないのである。

   まてよ、そうすればもしかして「我慢」というのも・・・・。

   我慢の「慢」が曲者である。

   気になって確認してみた。案の定である。

   「我慢」 (広辞苑による)

     ①   自分を恃みたかぶって他を軽んじる事   高慢

     ②   我意を張り、他に従わない事         剛慢

       そしてやっと次に出てくる

     ③   堪え忍ぶ事                    忍耐

           (現代用語ではこの意)

   元々は、仏教における煩悩の1つで、強い自意識から起る慢心

   という意味のようである。自己中心的な思い上がりの心である。

   (今は、忍耐というイメージに変遷している)

   前回(ブログ)の続きではないが、なんとも日本語というものは

   奥が深いものである。

   日本語をなめてはいけない。

   まあそういうことで、我慢も程々!

   

   

 

語学あれこれ

   困ったものである!

   未だに、電車などで外人と隣合わせになると、一寸身構えてしまう

   ところがある。

   もし話掛けられたら・・・という緊張なのだろう。

   馬鹿みたいな話だけれど・・・・。

   基本的な単語を300くらい知っていればOK、という説がある。

   そんなことはありえない・・・と、生半可な「知性」が邪魔をするのである。

   「おしゃべり」に知性は「抵抗勢力」のようである。

   英語圏では幼児も英語を話している、という波状攻撃で益々滅入る

   のである。

   一方、ふと電撃的な事実に気が付いた。

   日本語の300位の単語しか知らないような若者タレントが、堂々と

   テレビかなんかに出てきて、高額所得者である!

   「魑魅魍魎」や「万里一空」なんて知らなくっても、「セレブ」の仲間入り。

   「日本語会話」も300くらいの単語で充分通用する、ということが

   分かった。

   真面目な話、日本語だって本当は難しいのである。

   「未曾有」なんて読めなくっても仕方ないのである。

   嘘だと思ったら、「声を出して」新聞を読んでみるといい。

   ・・・・・ 日本語だって結構難しいのである。

   家人がボランティアで「音読」をしている。

   目の不自由な方のための「音読」である。

   曖昧や誤読は許されない。これが結構大変なのである。

   「日本語(漢字)」なのだが、これを正確に読みこなすのが如何に

   大変なのか・・・時折どう詠むのか聞かれる度に実感するのである。

   普段、黙読している分には、詠み方なんて正確に分からなくても

   あるいは」間違っていても、平気で読み散らかしていることを

   改めて実感するのである。

   「日本語なをもて往生する、ましていわんや英語をや」 なのである。

   ただ 我が家の(微量)な名誉のために一言付け加えておくと、

   語学力は遺伝と関係ないらしい。娘はなんと英語スクールで

   「英語」を教えている。  

   わからないものである。   

   

   

新たな時代へ

   全く私的な事柄ながら、68歳の誕生日を迎えた。

 04110003                     (夜明けを迎える我が街々)

   誕生日というのは、「両親に感謝する日」  というのを耳にした事が

   あるが、若い頃はなんだか「無菌状態」を押し付けられているようで

   馴染めなかったが、流石に此の歳になると、その意味合いが

   ストンと胸の奥に浸みる。

   この歳まで、「生きている」という、 このシンプルな「実感」の蔭に、

   両親の存在がある。

   「孝行をしたい時分に親はなし」とは、よく言ったものである。

   まあ、順送りということなのだろう・・・。

   誰かのエッセーに、「太陽と海は毎日同じ仕事を黙ってしている」

   とあった。

   混沌とした時代であるが 元々 「生物」が生きていく限り、

   「不安」のない世界なんてない。

   今日も元気で夜明けを迎えることが出来た。

   せめて気分だけでも、一新することにしよう。

04110005         ( いつもの散歩コースから 夜明けの太陽 )

   

   

   

   

感性逍遥

10010020

   感性逍遥

       青春は  やはり 「青春」と書く。

             「せいしゅん」や「セイシュン」では

             こころもとない。

       感性に 理由もなければ 理屈もない。

            青春は 「青春」と書かないと 似合わない。

            ただ そう感じるだけである。

       感性に優劣はない。

            良い悪いも  正しいか正しくないのかも

            あるのは 天才の領域だけである。

       日本人は 漢字 ひらがな カタカナ ときにはローマ字を

            駆使してこころを表現してきた。

            そこには なんら 「法則」はない。

            感性という掴み処のない 美意識があるだけである。

       感性は 永遠にして 未知である。

            赤い色を・・・

            紅梅色、曙色、桜色、鵜色、紅色、緋色、

            深緋色、茜色、弁柄色・・・・・・と、使い分ける

            古人の此の感性に瞠目するだけである。

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「権威」に思う

   いかにも「権威をかさにきた」扱い、を受けるのは腹立たしいものである。

   さて、この「権威」に付いて少し考えてみたい。

   広辞苑によるとこうである。(抜粋)

      ①  下の者を強制し服従させる威力

          人から承認と服従との義務を要求する精神的、

          道徳的、社会的、または法的威力。

      ②  卓越した専門家 その道の精通者

   

   ①の場合は、制度、体制、システムといった仕組みから派生する

   ある種の「権力」に対し、②は、本人の属性から生じるものであり、

   「威厳」に通じるもの、とも考えられる。

   因みに 「威厳」は、

       威光があって、おごそかなこと。 とある  (広辞苑)

   ①の場合の「権威」について、気を付けるべきところは、

   それが普遍的、固定的ではないということではないだろうか。

   それが、制度、体制、システム等に起因するものであり、それらが

   常に流動化し、進化(ときには退化)していることによる。

   又、それを運用する「権威者」によって大きな格差を生じさせる

   ことは、日常的に経験するところである。

   

   これらを踏まえ、「現代社会」に目をやると、「あらゆる権威が

   失墜しつつある社会」と言われて久しい。

   曰く、学校(先生)、家庭(親)、司法(裁判所、検察、警察)

   あるいは政治(家)等である。

   勿論、権威を振り回す、あるいは振り回される社会は、御免蒙りたいし

   多くは権威サイドに問題があり、また失墜した方がよいとする

   権威もあるのは否定しえないが、それでも、あらゆる権威が失墜

   する社会というのは、これでいいのだろうか、少し社会に「ゆがみ」が

   生じているのではないかと、少し懸念を持つのである。

   やはり、人間としての社会システム遂行上、一定の権威が

   必要ではないだろうか・・・、と考えるのである。

   それも、「威厳」のニュアンスがより濃いものであることは、

   言うまでもない。

   

   

   

   

   

   

   

住処の話

   総務省統計局では5年毎に、「住宅・土地統計調査」を実施している。

   直近ではH20年の調査で、今のところこれが最新のデータである。

   (次回はH25年に実施予定)

   改めてこのなかから、興味深い数値を取り出すと次の通りである。

                                (H15年調査比)

       全国総住宅数     5759万戸      370万戸増

        うち 空き家      756万戸       97万戸増

          空き家率      13,1%        12、2% 

          総世帯数     4999万世帯    273万世帯増

        うち住居世帯の

          ある住宅     4961万戸

        内訳 一戸建て   2746万戸  (55,4%)

            長屋建て    133万戸  ( 2、7%)

            共同住宅   2069万戸  (41.7%)

     

            持ち家     3037万戸 (61.2%)

            借家      1774万戸 (35.8%)

   夫々関心ある数値だが、なかでも注目すべき数字は「空き家」

   に関するデータである。

   空き家率13,1%という数字も驚きだが、「756万戸」もの空き家が

   存在している事自体なかなか実感がわかないものである。

   一般的に、賃貸住宅(マンション、アパート)の場合、空室率1割以下

   が許容範囲でそれを超えると収支が厳しい(ローン返済との兼ね合い)

   と言われている。

   (通常、収支計画策定では空室率を5%で見ておくことが多い)

   まあそのような個々の問題よりも、マクロ的に見た場合、特に昨今

   地震被災者の「仮設住宅」問題や、「公務員宿舎建設」問題が

   どうしても頭をよぎり、対比をしてしまうのである。

   次元の異なる話と分かっていても、ついなんとかならないものか

   と、考え込んでしまうのである。

   

       

洒脱な言葉

   お酒にまつわる先人たちの 何気ない「言葉」にも

   心強く ほろ苦く・・・・。

   そして なによりも 人生の襞が見え隠れしている。

   

      大体お酒のみには二種類ありますね 酔いたい人と 

      飲みたい人です。                   内田百閒

      ときには我を忘れるほど 酔うことも人間の特権だ。                                     

                                    山本周五郎

      酒がいちばんいいね 酒は人の顔を見ない

      貧乏人も金持ちも同じ様に酔わせてくれる   古今亭志ん生

     バッカス(酒の神)は ネプチューン(海の神)より

     多くの人を溺死させた。               ローマのことわざ

     一生を洗い流してくれるのは ただ酒だけである

                             韓愈  (中国 唐の文人)

   とりあえずこんなところで、自戒を込めて・・・・。                    

      

          

        

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