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2011年12月

一応の総括として

              今年も残すところ1日で緞帳が降りる。

              一言で言えば、「重苦しい1年」であった。

              人様々だが、夫々に視界の定まらないままに

              手探りで歩むような1年であった。

              政治の世界も、大半の重要案件を、来年度以降に

              先送りとなった。

              これが今日の政治事情なのだろう。

政治に思う事(一応の総括として)

   風・空気・外圧 と、3つの言葉を並べると、「ピン」とくる人もいるに違いない。

   風が興る、空気が生まれる、外国からの強い要請、 主にこれら3つの要素に

   よってわが国の重要な課題が決められていく。

   政治は先送りしていた難問ほど、これら3つの「蔓延」を契機として、「やむなし」と

   いう状況を形成し、決定に持ち込む。

   政治に携わる人達は、機をみることには敏で、自らの立ち位置すら変え、

   その蔓延しつつある空気により、物事を処理していく執行役を担うに過ぎない。

   風に逆らったり、空気を読まなかったり、外圧を無視して、先走ると肝心な

   ところで、決断がぼやけ、場合によっては頓挫してしまう。

   増税問題然り、基地問題然り、年金問題然り である。

   ややデフォルメした言い様だが、当たらずとも遠からずではないだろうか。

   風や空気によって物事が決まっていくのは必ずしも悪いことではない。

   底辺から湧き上がる空気に基づいて政治が行われることは、民主主義の

   王道であり、そのこと自体否定されるべきものではない。

   問題なのは、国としての、あるいは政治家1人1人の「政治理念」や「信念」が

   曖昧なままに、その場その場の空気に左右され、流されることである。

   骨格が定まらない ツギハギだらけの「妖怪」が生まれることになる。

   そうなると、今度はそれではならずと「改革・改革」の声が高くなる。

   一方で「妖怪」を量産しながら。片方でそれを「始末」しようとする。

   そのために過大なエネルギーを消費することになり、あたかもその労苦が

   「政治」だという錯覚に陥り、満足感に浸る。

   実態は、「君たちが思っているほど」前には進んでいないのである。

   12年度予算案も、それを具現しているように見える。

   政権交代から2年、どこが違ってきているのだろうか。

   「国債依存の予算は限界にきてしまった」 財務大臣の弁である。

   そう言われても、我々国民はどうすればいいのだろうか。

   それこそ「増税賛成」の空気つくりに躍起、と見えてくる。

   別に 消費税増税に絶対反対の立場でもない。

   問題の視点は、初めて消費税が導入された頃(当初3%)の情景(議論)を

   思い起こすと明白になる。

   当時も、「無駄を無くす・・・」ことが、導入の前提条件であり、最大の

   導入説得話法であった。

   しかるに、今日もなお、高齢化、社会福祉予算の増大等追加要素は認める

   としても、底流にあるのは同じ議論の繰り返しである。

   あたかも周期的に到来する行事の如しである。

   なにか根本的な対処が欠落しているのではないだろうか。

   空気を読んで政治に生かすこと自体は極めて真っ当な政治姿勢である。

   一方で、あらゆる立場、あらゆる地域、あらゆる環境下にある個々人や

   組織、団体から様々な空気が生まれるのがこの社会の様相そのものである。

   「選挙」という風圧に負けて、これらをただツギハギのように取上げていた

   のではパンクするのは目に見えている。

   長年、高度成長のもとで、行ってきた、あるいは行うことが出来てきた

   政治システムこそが「限界」にきていることを自覚すべきである。

   やるべきことをやれば、たとえば消費税増税問題も、すでに6~7割の

   国民が賛成(やむなしというニュアンスだとしても)という調査結果もある。

   国民の大勢は、すでにものごとの本質をお見通しなのである。

   「この国も捨てたものではない・・・」というのを無理やり総括の結論に

   持って来て、気分を改め、新年を迎えることとしたい。

  

   

   

   

   

   

「東郷」を巡って

   周知の通り、今年のNHK大河ドラマは、「坂の上の雲」であった。

   以前このブログでも触れたことがあるが、日露戦争は、わが国の

   近・現代史の分岐点を形成するものといえ、ある意味では、今日の

   日本を考えるうえでの起点になるものともいえる。

   それだけに、ドラマも重厚なものに仕上がっていた。

   日露戦争といえば、やはり「東郷平八郎」の名は外せない。

   国内に留まらず、国際的にも未だ東郷の名声は高いと聞く。

   ということからか、思いつくままに、年の暮れの、「天気晴朗」なある日

   東郷平八郎の墓 (多磨霊園)に赴いた。

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   丁度隣は、「山本五十六」の墓である。

12010003_2

   時期は少しズレるが、二人の海軍の巨頭が、並んで眠っている

   のもそれなりに赴きがある。ふたりの墓には恐らくお花が途切れる

   ことはないのであろう。

   東郷は、自らの神格化を好まなかったが、当時の海軍を中心とした

   気運であろう、渋谷区明治通りに「東郷神社」がある。

   2,3度訪れたことがあるが、、海軍ゆかりの「水交社」がある。

   さて今回、多磨霊園から遠くないところに、「東郷寺」があるのを

   初めて知り、足を伸ばした。

12010007

   城門を思わせる重厚な山門が、如何にも我々が思い浮かべる

   東郷のイメージに相応しく、目を見張った。

   この地は、元々 東郷の別荘地があったところとの由である。

12010005

   なお、偶々 この府中市の、あるお寺に、愛犬「ラブ」が眠っており

   手を合わせてきた。

   年の暮れ、本日 「気分も晴朗」の1日であった。

  余話

    偶には、多少骨っぽい事も書き添えておく。

    日露戦争に関して、連合艦隊に比し、バルチック艦隊は圧倒的な

    戦力装置を備えており、これに勝利したのは、「奇跡的」 「神懸り的

    勝利」というニュアンスが通説になっているが、実はその後、

    連合艦隊も同等、あるいはそれ以上の戦力装備を備えていたと

    する実証研究(国力そのものの比較は相当の開きあり)もあり、

    またこの「奇跡的勝利」も、当時の政治的情報操作によるところが

    大きいとし、その後の方向性に悪影響をもたらすことになった、と

    する説が、台頭してきていること、 さらには、英国をはじめ列強の

    思惑(ロシアの巨大化阻止)から蔭で日本に協力的であったこと、

    たとえば 英国諜報によりバルチック艦隊の動向が逐一日本に

    流されていた・・・、という研究結果もある。

    「真実は如何」  誠に歴史の面白さであり、凄さでもある。

    だからといって、東郷平八郎や秋山兄弟の名を決して貶めるもの

    ではない、ということを申し添えておきたい。

               

 

師走茫感

   茂木健一郎氏の「アハ現象」ではないが、我々の日常は

   世の中の変化に対し、案外その動きを知らずに、あるいは

   気付かないままに過ごしている事が多い。

   ある時、ふとその変化に気付き、唖然とすることがある。

   それほど世の中の変化は、静かに忍び込む如くに動いているので

   あろう。

   ただ、3・11のように、突如として世界を一変する事態も起りうるが、

   まあ通常は、知らず知らずのうちの変化が常態ということだろう。

   師走は、ふと立ち止まり、この1年の変化をしみじみと想いかみ締める

   季節である。

   師走それ自体も、何時のまにか、その風景が変化していることに

   気付くのである。

   古い記憶では、師走は京都・南座顔見世(まねき上げ)の写真が

   新聞に掲載されることから始まった。

   暗黙の約束事(しきたり)のようなものであった。

   今の主流は、何処そこのイルミネーションが点灯した、ということ

   から年の瀬が始まる。「クリスマス」が師走の顔になったという

   ことであろう。

   これも、いつの間にか、少しづつ、少しづつ の時代の流れである。

    12030001               (今年の南座 「まねき」)

   先日、偶々 ご近所から庭にできた「柚子」を頂いた。

   冬至に、その柚子を風呂に浮かべた。

   ささやかな 「伝統・文化」の伝承?である。

   こうして今年も暮れてゆく。

   時代は、はっきりと気付かないままに、静かに動き、変化し続けて

   いる。  少しづつ・・。少しづつ・・・・・。

   

   

   

   

賞賛と侮蔑

   言葉は生きている。

   その時々で、異なる姿で現れるから安心できない。

   たとえば、「したたか」という言葉である。

   大概の人は、「したたかな奴」と言われると気分を害するものである。

   でも、本来というか、そもそも 「強か」 「健か」 と書いて、褒め言葉でも

   あったからややこしくも、面白い。

   どうやら、周りから抜きん出ると叩かれ、本人も自虐的な態度を取る

   という風土が背景にあるようだ。

   因みに、広辞苑では次ぎのようである。

       ①   非常に強いさま   手ごわいさま

       ②   甚だしく

       ③   厳重に 多く 沢山

            さらに「したたかもの」として

       ④   容易に人に屈せぬ者  剛の者 強い者

       ⑤   海千山千のくせもの 一筋縄で行かぬ者

                                    と ある。

   1つの言葉に、賞賛と侮蔑を兼ね備えているなんて、結構、

   一筋縄でいかない「したたか」さではあるまいか。

   繊細にして微妙なこれらの「日本語」と、それらを使い分ける

   「日本人のコミュニケーションの特質」との関連性については、

   面白い研究テーマになりそうだが、ここではさて置き、

   今年、1年を振り返り、思うことの1つは、

   こういう時代こそ、日本、あるいは日本人は、いい意味での

   「したたかさ」を身に付けるべき、と感じるのである。

   したたかさは、図々しさではなく、容易に屈しない強さの方である。

   「人のよさ」も 勿論捨て難いが、来年あたりは少々骨っぽいところで

   「飄々と したたかに」 という生き方もいいのではないだろうか。と

   本人は結構真面目に考えているつもりなのである。

   

   

   

   

学ぶこころ

   歳を経ても、この世の中知らない事ばかりである。

   砂浜の白砂のうち、知っている事なんて「一握の砂」もあれば良しと

   せねばならない。

   だからこそと言うべきか、いつまでも元気なうちは、「知的好奇心」を

   持ち続けたいものだと願っている。

   学ぶこころは、教えを請う気持ちを忘れない事、と言い聞かせている

   つもりである。

   最近は各大学とも、市民(社会人)向け公開講座に積極的に取組まれて

   おり、学内の知的財産の社会還元という意味合いからも結構な傾向で

   ある。

   特に我々リタイアー世代にとっては、改めて本格的な「学問」に

   再チャレンジするには、頭に錆がきており、根気も乏しくなりつつあるので、

   市民講座位が丁度格好の学びの機会を与えてくれるのである。

   幸いにして、今の住居の周辺には大学キャンパスが多くあり、

   マイカー(自転車!)で行ける範囲でも、ざっと次のような大学がある。

        東京学芸大  東京経済大   一橋大學

        国立音大   武蔵野美術  東京農大 津田塾   等々

   これら大学では、結構市民のための各種イベントや講演などを

   行っており、機を見ては、出るようにしている。

   一橋大学では、アドレスを登録しておくと、講座や講演会の案内を

   メールで知らせて貰えるようになっている。

   今年は、連続(8回)市民講座 「 {常識}を問う -社会科学の

   多様な視点」 を聴講させて頂いた。

   どの程度理解出来たかは、個人機密事項?につき・・・であるが・・。

   なお、秋の大学祭のシーズンにも、興味の向くままに出掛けること

   がある。

   武蔵野美大や学芸大の学生達の作品を見るのも、現在最新の

   傾向が垣間見えて興味がある。中には「ロートル」には理解しがたい

   作品に出くわすのも まあそれなりに一興ではある。

   「生涯学習」というと、なんだか枠に嵌るようで、私にはあまり馴染め

   ないが、、市民講座や講演あたりが、自由気まま、興味本位な選択

   が出来、格好の対象である。

   時には、「大学の門」を叩くのも、我々リタイアー世代には、日常生活の

   アクセントにもなり、また、最近の学生気質の一旦も覗えるという余禄

   もあり、私にとっては「学ぶこころ」の拠り所の1つなのである。

  

     

   

群集

             群集

       

          強い 人間なんていない

          皆  強がっているだけだ。

                 確か  村上春樹の言葉かと思う。

              そうか  強がっているだけなんだ

              あいつも   こいつも

              威嚇し  背伸びし  大声を出して

              時には  武器まで持ち出して

              強がっているだけなんだ。

              奈落の底に 沈まないために

              誰もが抱える深い弱みを隠すために

          強い 人間なんていないんだ

          皆   強がっているだけなんだ。

                 地球の 愛しい 生きものたちよ。

       

                               

       

ケインズは死んだか?

浅学の徒の独り言

  ケインズ以前の社会・経済は、「均衡財政・経済」を舵取りの基軸とした。

  その神話を覆し、不況期にあっては、政府支出(公共投資)による景気浮揚、

  即ち、「均衡」に拘らない(一時的財政赤字・赤字国債の発行)という「発想」を

  打ち出したところに、ケインズ経済学の真価がある。

  その後の経済政策の主流になった事は、歴史が示すところである。

  ところが近時、ケインズ理論は「骨董的価値」に移行したという見方が浮上している。

  その理由としては大きく2つ考えられる。

  1つは    「物」の生産(設備投資)による経済行為より、「金融」で一儲けする

          方が利益期待が手っ取り早いとするグローバルな風潮。

          したがって、公共投資や金利政策が、従来通りの設備投資呼び水

          →雇用増→消費増 による景気浮揚に結び付きにくくなったこと。

  2つめは  理論は正しくても、その使い手に問題がある(あった)こと。

         従来の政治システム、官僚機構の元では、「公共投資(事業)」を

         ケインズ的「経済政策」の名のもとに、「政治的」な色合いで行われて

         来た事。その結果 中身的にも、量的にもブレーキの利かない

         拡大基調が常態となり 莫大な財政赤字が生じることとなった。

         これは各国にも共通する傾向である。

  これらの結果、最早「ケインズは死んだ」 という経過となっている。

  確かに、上記2つの実態に変化がない限り、ケインズ経済政策は、その効果に

  限界、あるいは逆効果を生じさせることにもなる。

  さりとて、近代経済学、現代経済学も (といっても、私には今日の数量経済学

  は理解不能だが) ケインズ理論に代わって、確たる経済政策理論を示すまで

  には至っていない。(フリードマン理論もあるがここでは割愛)

  現状においては、ケインズを葬るのではなく、あくまでその理論をベースにして

  今日の実態経済に適合する理論を摸索することが肝要ではないかと考える

  のである。

  「ケインズは死なず」というのが、今のところの素人なりの独り言である。

  

  

「空也上人」を歩く

Kuuya_3

   今も教科書に載っているであろう「空也上人立像」である。

   京都・六波羅蜜寺(宝物殿)に安置されている。

   運慶の四男康勝の作とされている。当時から斬新さ、奇抜さで

   稀有なものであったことであろう。

   1メートル位の高さの像だが、観ていて飽きない迫力がある。

   恐らく空也晩年を模したものであろう。横顔は確かに年老いて見える。

   ただ正面から見ると、私には少年か青年の顔にみえるのである。

   (斜め前からの写真が定番で、実物をみるしかないが・・・)

   さらに、身体付きも、特に足の細さなんかみていると、少年の如くに

   みえてくるから不思議な感覚になる。

   時代劇にこんな子供が出てきそうではないか。

   如何なものであろうか。

   空也は醍醐天皇の第二皇子という伝えがある。(同寺では明言

   している)

   この点、ふと一休宗純の生き様に似通うものを感じる。

   周知の事だが、六波羅蜜寺の名は、六・波羅蜜で次ぎの六つをいう。

       布施     見返りを求めない応分の施し

       持戒     瞬時瞬時に自らを戒める

       忍辱     堪え忍ぶこと

       精進     不断の努力

       禅定     冷静に第三者の立場で自らを見つめる

       智慧     自ら授かっている智慧を曇らせないこと

                          ( 同寺の書き物による)

   なお同寺には、平清盛の墓があり、あの「平清盛坐像」が、

   空也立像と並べて展示されているのも一興である。

12010009

   また、京都には空也上人に因む「空也堂」がある。

   元々念仏道場として建立されたものらしく、お寺としての規模は小さく

   いつもは門は閉じられたままである。

   念仏踊り(六斎念仏)の継承の場ともいわれている。

12020018

   余談だが、偶々 山田太一書下ろし小説の「空也上人がいた」と

   いう本が出ている。

   読んでから訪れるか、訪れてから読むか 

   私は一読してから、訪れることになった。 

   

   

     

   

野球界三噺

  横浜問題

    ソフトバンク、楽天、に次ぎ、今回DeNAの参入。 

    主力選手の海外流出

    地上波放映の減少(相対的人気の翳り)  等

    野球界にも大きな変化の時代に入った。

    今回新体制の横浜ベイスターズだが、その源流が大洋ホエールズで

    あることは周知の通りである。

    では、その遥か源流の先に「京都」との接点があったことについては

    今や歴史の彼方である。

    往年の「松竹ロビンス」が一時期 京都衣笠球場を本拠地としていた

    ことがあり、その松竹と大洋が合併。 その後松竹が撤退した事により

    大洋が後継球団となり、横浜に引き継がれたという経緯である。

    人間に置き換えると、横浜には、少々の京都の血・DNAが入っている

    というわけである。

    まあ現在の横浜フアンにとっては、どうでもいいことではあるけれど

    これも1つの球史である。

  ドラフト問題

    他人がトヤカク言う問題ではないが、憧れの球団に入るために

    浪人を決意したという話がある。

    その球団がまた「巨人」であるだけに、ニュース価値も倍加する

    というものである。

    この事で偶々、原監督の 「ジャイアンツ愛」を思い起こした。

    チームを預る監督が、チーム愛を標榜するのは当然であり、

    それ自体少しも間違ってはいない。

    ただもし「愛」とい言葉を使うのなら、野球そのものへの「愛」が

    その前提として存在する筈である。

    思うことは、「プロで好きな野球ができるのなら、どこでもいい、

    頑張る!」という「愛」の方が、私の「好み」というだけである。

    今回プロに入る選手のうち、どれほどの人が、ドラフトという

    現実の制度の下で、希望(憧れ)のチームに入るのだろうか。

    また、仮に憧れの球団に入っても消えていく選手は大勢いる、

    そんなことを思い巡らせるのである。

    繰り返すが他人がとやかく言う問題ではない。ただ私の

    「好み」の問題というだけである。

  FA問題

    下位球団のある主力選手が「優勝を経験したい・優勝が望める

    球団」ということでFA宣言し、どうやら希望の球団と接触中との

    ことである。

    1選手の心情としてはよく理解できるし、現行の当然の権利でも

    ある。

    その接触球団が、今季1,2位の中日、ヤクルトではなく、3位の

    「巨人」というのも、なんとなく納得の空気があるから面白い。

    「社会現考学」的に誠に興味のある話ではないか。

    その主力選手と共に汗を流してきた、今までのチームメートは

    どう感じるのだろうか。

    あるいは、別段何も感じることはないのだろうか。

    今回入ってくる新人たちはどうだろうか

    来季に向けて、キャンプインするときの選手達のモチベーションは

    どう持っていくのだろうか・・・・。

    「優勝を経験したい・・」というコメントをなんの違和感もなく

    受け入れるマスコミ・・・やはりプロの世界は凄い。

    ただ私には、阪急、近鉄といった当時の弱小球団を優勝球団に

    導いた西本監督、とそれに就いていった選手たちの「意気」の

    方にプロを感じるのである。

    時代遅れなのかもしれないが・・・。

    

   

    

    

    

古都散策

   温暖化の影響なのか、紅葉の見頃が遅くなってきているようだ。

   京都では12月に入ってからの数日がピークの頃合とのことだった。

   丁度その頃に清水寺、大徳寺といったメイン処を一応「表敬」したが、

   今年は全般に原色の艶やかさに欠ける印象を持った。

   そこで、紅葉に関しては、あちらこちらと人混みのなかを出歩くのを

   止め、「真如堂」「植物園」に絞ることにした。選択はまず正解であった。

   京都まで来て、何故 「植物園」?ということになろうが、

   加茂川と植物園 そして借景の比叡山 のコラボ。 が有名な寺院や

   庭園とはまた趣を異にした「京都らしさ」の私なりのこだわりである。

12030002             真如堂 東参道を登るとこの景色が表れる

   12030003              真如堂の庭

12030005              真如堂 本堂よりの眺め

      (真如堂公式ホームページの写真 一見 お薦め)

12030009              植物園 大公孫樹

12030012             植物園内の紅葉

12030014              植物園  噴水

12030008              植物園への道

12030007              植物園の西側に沿って加茂の流れ

   余禄

     真如堂を訪れば、隣の金戒光明時に立ち寄るのが定石。

     ここは会津藩京都守護職の本陣を構えたところ。

     禁門の変や、鳥羽伏見の戦いで亡くなった黒谷会津藩殉難者の

     墓地がある。

     古都を散策することは、歴史を散策することでもあるようだ。

12030006    

オーミステイク

   こんな他愛のないブログでも、一応文章にして公表するからには、

   常識的な間違い位はしないよう気を付けているつもりである。

   たとえば、福井県の永平寺と書いた後で、「アレ!福井だったよな」と

   気になり出し、調べてほっとする程度の事ではあるけれど。

   勿論、人を傷つける誹謗、中傷の類は論外である。

   ということで、今回はミステイクに纏わる話である。

   今回の京都行きでも旧友諸氏、諸嬢との楽しい懇親の機会を得た。

   その席で、「お前のブログで、大文字焼き と書いていたが、京都人は

   絶対 焼き とは言わない」 と手厳しくも頼もしい指摘を受けた。

   指先のトゲの如く、先刻承知のミステイクだったので、即時 白旗を

   挙げて非を認めた。

   流石旧友である。 目を通してくれていて、ストレートな忠告がかえって

   小気味よく、素直に受け止めることが出来た。

   京都人なら 絶対 「送り火」でありました。

   ところで、言い訳で書くのではないが、

   箱根の「大文字」は、観光要素、イベント要素が強いのであろう

   「大文字焼き」が通り名となっている。

   小生も京都を離れ、箱根の山を越えて、東京在住数十年に至った。

   無意識のうちに、郷に染まったのであろうか。

   やはり、年に何度かは京都に帰り、旧友たちに京都の魂を吹き込んで

   もらう必要がありそうである。

   勿論、夫々元気に酒を酌み交わすことが本旨ではあるけれど・・・。

   

   

おりょうとの縁

   京都・三十三間堂は、修学旅行、団体旅行の定番である。

   日々観光客が大勢訪れるが、現在裏門にあたる「南大門」まで

   足を運ぶのは、大概渋好みの熟年か、「龍馬」ファンといったところである。

   この門のあたりで、龍馬とおりょうとの初めての出会いがあった、という

   話が伝わっているからであろう。

   12010006              (現在の南大門の通り、遠方京都タワー)

   そもそも初めての出会いの場所なんて、当人しか知る由もない事柄では

   あるが、そこはそれ歴史伝承の面白さである。

   1つか2つの事実関係を引き伸ばし、このあたりで顔を合わせることも

   充分ありうるとの推測の「たまもの」であろう。

   この南大門を入ってすぐ左の寺の境内に「後白河天皇陵」がある。

   三十三間堂の賑わいに比べひっそりとしたものである。

   訪れた日も、老夫婦1組に出会うだけの物静かさ。

   紅葉が見頃であった。

12010001

   京都における、龍馬に纏わる場所としては、維新の道(墓)、寺田屋

   近江屋跡などが有名だが、おりょうとの関係では、近年「武信稲荷」が

   脚光を浴び、特に女性観光客の人気スポットになっている由。

   身を隠している龍馬が、おりょうと何度も訪れた、この神社の大木

   エノキに「龍」の字を書き込み、それをみたおりょうが、龍馬の無事を

   察知するという逸話がのこる神社である。

12030015              ( 武信稲荷のエノキ 樹齢850年 )

   何気ない場所に、何気ない逸話や、故事が残っていたりする。

   たとえマイナーであっても、そんな場所を勝手気ままに ぶらりと

   訪れるのも、ひとり旅の贅沢時間と言えよう。

道元と親鸞

   親鸞1173年の生まれに対し、道元1200年。

   ふたりは、同一時代を生きている。

   27歳の年の差があるが、親鸞が長命(90歳)だったので、道元より

   9年後入寂したことになる。

   京都の公家を出生とし、母方の親戚関係から面識があったという

   説もある。

   道元といえば、福井県永平寺だが、終焉は、生まれ故郷の京都・

   高辻西桐院で迎え、54歳であった。

   当地に石標があり、そこを終焉の地としている。

   民家の連なる一角のほんの数坪位の佇まいが、如何にも曹洞宗開祖

   らしい示寂の地と言えなくもない。

12020010

   そこからほんの100mほど北に歩いたところに親鸞入滅の地がある。

   夫々の開祖が、極く近い場所で終焉を迎えているというのも、如何にも

   京都の地らしいところである。

12020009

   ただ、親鸞終焉の地は、今も諸説あり、定まっていないようである。

   御池柳馬場もその1つであるが、今は中学校になっており、校門前の

   道路脇にぽつりと石標がたっているばかりである。

12020030     

   諸説の背景には、本願寺派、大谷派の絡みがあるようで、部外者

   には、あまり立ち入ることもないだろう。

   今年は親鸞入滅後750年。西本願寺では750回大遠気忌法要が

   営まれている。

   12月上旬。同寺のイチョウは丁度見頃であった。

12020005  

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