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2012年3月

オルセーの「ひかり」

   印象派絵画の殿堂といえば 「オルセー美術館」

   近時リニューアルが行われ、見違えるように 絵画が鮮明にみえるように

   なったとの由。

   周知の通り、この美術館は、元々鉄道駅舎(ホテル併設)の跡に建てられた。

   遡る事、1900年のパリ万博の折、観客輸送のために敷かれ、その後

   数々の変遷を経て、一時は取り壊しに決まり掛かったが、1978年美術館と

   して活用することが決まり、1986年開館にこぎ着けた。

   駅舎の大時計等をそのまま取り入れた斬新な設計である。

   今や、セーヌ川対岸の「ルーブル美術館」と双璧のスポットとなっている。

   さて、私事ながら、小生、小・中学以来、本格的に絵筆を持ったことがないと

   いう生粋?の「絵画音痴」である。  が、どういうわけか、観ることは好きで

   今も時折の美術館巡りを趣味の1つとしている。

   平均的日本人の嗜好と同様、やはり印象派は好みの1つである。

   印象派も当初は、非難、罵倒の対象とされたようであるが、今では

   特に日本では不動の地位を得ている。

   ある専門家は、それまでの宗教絵画に象徴される、約束事や形式からの

   開放が革新的で、非難は通過儀礼、と評されている。

   ところで、このオルセー美術館であるが、実は私も1989年に訪れている。

   後日、開館3年目であったと知る。

   平凡な感想だが、やはり教科書でみる絵画の実物が次々に展示されて

   いる前に、ただ圧倒されるばかり、であった。

   もうこれから先、訪れることは叶わないであろうが、精々、BSの美術番組

   でも観て、世界の美術館巡り・・・というのが現実的な楽しみである。Img               オルセー美術館入場口前にて

               若き日の雄姿にあらずして、遊子なり。

   

   

   

露伴の時代

   周知の通り、幸田露伴といえば、尾崎紅葉とともに、紅露時代を築いた

   明治の文豪である。

   代表作「五重塔」や、幸田文、幸田玉、幸田奈緒 の文人家系で

   今日においてもその名はいき渡っている。

   さて、その幸田露伴であるが・・、といっても、その本業のことは文学系の

   専門家評論に任せるとして、例によってある遊びこころ、他愛のないことに

   着目したい。

   露伴の生涯の起点と終点についてである。

   露伴といえども、自ら生きる時代を選ぶことは出来ない。

   露伴は1867年に生まれている。慶応3年、明治維新の1年前である。

   記憶はないとしても、一応明治維新を「体感」しているのである。

   そして、その幼児期は世の中の未曾有の激変の中で育っている。

   そして、亡くなったのが1947年、あの戦争敗戦2年後である。80歳であった。

   即ち、壊滅的な日本の敗戦ということも経験しているのである。

   日本の歴史においても、明治維新と太平洋戦争(敗戦)は、日本の曲り角を

   象徴する大きな出来事である。

   その2大歴史事象を生涯の初めと終りに体験し、その間の時代を生きた

   稀有の文人が幸田露伴ということになる。

   多かれ少なかれ、あらゆる芸術(家)は、その時代の様相に影響を受ける

   というの定説である。

   露伴の本業をあれこれ論じる能力・知識は持ち合わせていないが、

   まあ末梢的視点ながら、露伴の生きた時代を思い浮かべながら

   作品の1つ2つ手にとるのも一興ではないだろうか。

   

さらば「羊蹄丸」

   過日、このブログでも南極観測船「宗谷丸」のことに触れたが、丁度その

   お台場で、この船に隣接して、青函連絡船「羊蹄丸」も係留、昨年9月まで

   展示、一般公開されていた。

   「青函連絡船」は、特に昭和生まれの人間には、ある種の郷愁を感じさせる

   ところがある。北の海の厳しさ、洞爺丸事故、水上勉の「飢餓海峡」といった

   イメージが背景にあるのかもしれない。

   さてこの「羊蹄丸」が、維持費等の問題もあり、愛媛県新居浜東港に無償

   譲渡されることが決まっていて、3月25日、新居浜港に向け出航した。

   同港で、数ヶ月間一般公開され、その後解体となる。

09160022               宗谷丸から見える対岸の「羊蹄丸」

   当日の朝、連絡船関係者の打ち鳴らす銅鑼の中、羊蹄丸は静かに

   離岸、対岸の宗谷丸からも長い汽笛が鳴り響いたという。

   船も生きている如し、永遠の別れである。

   私も以前に2度、船内を見学し、当時の青函連絡船の空気を

   感じ取ったことがあるだけに、ある種の感慨をもってこのニュースを

   受止めた。

   また1つ、昭和の灯が消える。  さらば「羊蹄丸」。

   

      

4月の焦点

   4月、新年度早々の焦点の1つは、小沢元代表裁判の判決(4月26日予定)と

   それに伴う政局の動き、ということになろう。

   長年引き摺ってきた問題に一応の決着がつくことになる。

   事実関係の全容を知る由もないし、結果については、軽々に論じる立場でも

   ないが、各メディアでは、すでに有・無罪想定し、夫々の論調を検討・整理して

   いるに違いない。

   仮にという話として、結果(たとえば無罪判決)に対して、マスコミはどういう

   スタンスを取るのかに、私なりの関心がある。

   特にこの16日にホームページを立ち上げて、実質旗揚げした「新政研」の

   取り扱いである。

   ざっと目を通したが、やはり政策ビジョン(小沢流船中八策)が目にとまった。

   具体的な中身云々の前に、テーマ、ポイントの捉え方において、大阪市長の

   それに比べ、あくまで個人的感想だが、政治家としてのキャリアの差を

   感じさせた。

   テーマ(八策)は次ぎの通りである。

         1   福島原発対応

         2   国の統治

         3   安全保障を含む危機管理

         4   立法府のあり方

         5   年金

         6   税制

         7   非正規雇用

         8   景気対策

   これら8つのテーマ(課題)について、同グループメンバー(いわゆる

   小沢チルドレンと言われる人達を含む130余名の議員)が、各々分科会

   で詰めていくという。

   そこで問題は1つ。

   我々国民も、結構鍛えられ、シビァーになってきているのである。

   厳しい言い方をすれば、果してこの議員メンバーで、納得できる、かつ

   説得力のある提言が期待できるかどうかである。

   くれぐれも官僚からレクチャを受けて作成・・・ということだけは

   勘弁してほしい。

   まあ未だ3月、今の段階での仮の想定話はこれくらいにしておこう。

      

   

   

或る歴史事件

   幕末の 1861年3月。 ロシア軍艦(蒸気船)が、対馬に不法投錨し、

   6ヶ月余にわたり居座ったという、いわゆるボサドニック号事件がある。

   列強国が、軍事力をチラつかせた強硬外交で、開国(下手をすれば

   殖民化)を迫っていた頃の出来事である。

   この事件に対する、当時の対馬藩や幕府の対応が、いかにも今日的と

   いうか、今日の日本外交にも多くの示唆を与えるという点で、興味深い。

   通説による、事件のポイントを列挙すると次のようである。

      日本に対する列強の主導権争い、特にロシアにおける不凍港(基地)の

      確保という背景から、同国軍部(現場)の独断的不法投錨。

      船体の故障による修理のためという名目。

      藩主との面談、会談を求める。

      藩主拒否。背景に藩内での攘夷派(武力強硬派)と穏便派(平和裡に

      解決)の対立・混乱。

      藩主(宗義和)は、立場上、穏便に解決したいとの考え。

      食料等も与え懐柔を計らせたとう話も残るが当然平行線。

      長崎奉行所に指示を仰ぐも「事を荒立たせるな」のみ。

      その間、ロシアは上陸、兵舎などを建て始める。

      問題が益々大きくなり、幕府レベルでの対応となるが、

      肝心の幕府も対応に苦慮、のらりくらりの状態が続く。

      追い込まれた状態で、ようやく外国奉行小栗上野介を派遣(咸臨丸)

      事態の収拾に当たらせた。

      小栗奉行とロシアとの何度にわたる会談の結果に基づき「案」

      を持ち帰るが、幕府これを取り合わず、小栗は辞任。

      結局、時の老中(井伊直弼の後任)、安藤信正がイギリス艦隊と

      協議、同国の介入(対馬に艦隊派遣)により、ようやくロシア側が

      対馬を離れ、これをもって歴史的には一応事件は決着という

      取り扱いをしている。

      不法投錨から撤退まで、(それも他国の介入により)

      約6ヶ月を要したことになる。

      なお、安藤信正も、その後水戸浪士などに襲われ、それを機に

      失脚している(坂下門外の変)。

   小さな歴史事件も、所詮人間が、あがきもがいた姿の反映である。

   詳細に見ていけばいくほど、様々な教義を含んでいる。

   上記事件も、今日の拉致問題や、領土問題等に対する、日本の対応、

   外交を考える場合に、多くの示唆を与えてくれるような気がする。

   如何なものであろうか。

   

   

      

      

      

      

      

ラストラン

   2012年3月16日

   青森ー大阪間 約1000キロを縦走する寝台特急 「日本海」の

   ラストランであった。

   多くの鉄道フアンが駆けつけ、切符も15秒で完売した由。

   この「日本海」に関連して、私にも遠い思い出がある。

   学生時代、初めての夏に北海道に行ったのが、この「日本海」では

   なかったか、と記憶している。(今の「日本海」の前身?)

   京都から、日本海沿いに、北陸、信越経由 青森に行き、青函連絡船で

   函館 という行路であった。

   北海道まで丸1日掛かり、当時の学生には当たり前の旅(たび)感覚である。

   しかも、「日本海」の特急列車化(寝台)は、1986年なので、その前の

   急行列車の時代。 また青函トンネルも1988年だから、当然青函連絡船で

   という次第である。

   確か、夜の8時頃に当時の「日本海」に乗り、車中泊、翌日の午後に

   やっと青森着。それから船に乗り、ようやく函館でその日の夕食に

   間に合うという行程である。

   今の学生(旅行)には、考えられない話である。 といっても

   誤解なきよう、 ほんのこの前! 昭和の時代の話である。

   (因みに当時の国鉄学割は5割引、古き良き時代であった)

   昭和の勇士たちが、1つ1つ ラストランを迎え、次々消えていく。

   これもまた時代の流れである。

   奇しくも、今年航空業界も、低料金飛行がスタートし、

   新しい局面を迎えようとしている。

   時代の様相は様々変わっていっても・・、 それだからこそ

   大切なものは、そっと思い出の小箱に仕舞っておきたい。

   時代を生きてきた者の特権である。

   

復興について

   東日本被災地の復興は、国を挙げての課題であり、

   国民 皆の強い願いである。

   ただこの「復興」にも、立ち位置によって様々な本音や建前が重層している。

   たとえば、ある被災者のこんな本音には、おもわずハッと胸を打たれ、

   考えさせられるのである。

    「 どうしようもない現実の前に、我々はただ茫然とするばかりである。

     それだけに、国や行政の働きには心から感謝している。

     ただ、我々だって、本当は自分たちの生まれ育った土地や住居を

     我々の手で復興させたいのである。

     それが出来ない現実の悔しさはなかなか理解してもらえない。

     本音を言えば、3.11以前の自然や、思い出の風景、ふるさとを

     1つでも多く復活させることが、我々にとっての復興なのです。

     国や行政の設計図によって、あたかもブルドーザーによって根こそぎ

     それらが片付けられ、新しい住まいや工場が建てられ、そこに住みなさい、

     そこで働きなさい、と言われても、それがわれわれの慣れ親しんだ土地の

     「復興」なのかと思うとなんだか寂しい。

     復興ってなんなんだろうね。

     今、こんなことを言うのは贅沢、とは解かっている。  だけど・・。

     瓦礫のやまも、決していらなくなって捨てた大量の粗大ゴミなんかじゃ

     ありません。

     我々の思い出の数々です。1つ1つに涙がでるほどの愛着がある。  

     無残な姿になってしまったけれどもね。

     それらを「瓦礫」の一言で、片付けられるのは堪らない。

     でも、一生懸命その瓦礫の処理をしてくれている人たちには

     絶対そんなことは言えません。

     じっと耐えてそれをみているしかないんだね」

        ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

     これを聞いてどう感じるかは人様々である。

     ただ少なくとも、やれ復興だ、やれ瓦礫処理だと、論じるのであれば、

     これら被災者のこころの奥底にある哀しみを忖度することを忘れては

     いけない。そんなことを、思いかみ締めるのである。

     

     

    

         

仏心と邪心

      3.11から1年。 直接強震を経験した者は、

      なんらかの記憶を思い起こすことになる。

      そして、多くの被災者に対し、全ての国民が、夫々の立場で

      なにが出来るかを、 改めて考え直す時期でもある。

      こうした中、3.11のテレビ番組 「NHKスペシャル」で  

      被災の極限を体験した人たちの話を視聴した。

      特に、閉じ込められた列車のなか、不安と恐怖で遺書まで書く人が

      いるような状況に追い込まれた人たちが、手持ちの水や食べ物を

      供出し合い、皆で一口づづ分け合い、寒くて暗い夜を助け合い

      励ましあって凌いだ。というこの連帯に、感動という言葉以上の、

      なんだか人間としての凄さを感じた。

      神々しいまでの凄さである。

      ややもすれば、「我先に」のパニック状態になってもおかしくない状況にも

      係らず、この極限状態における人間としての「姿」である。

      同じテレビのニュースや新聞の同じ紙面に、「それでも人間か」と

      叫びたくなるような犯罪や事件がある。

      これも同じ人間のなせる「様」である。

      さらに言えば、 1人の人間のこころのなかにも

      このような「仏心と邪心」が蠢いているのかもしれない。

      それもまた人間の凄さの一端。

      そんなことを考えさせられている。

      

「消えた年金」問題

   AIJ投資顧問の「消えた年金」は、多くの人たちの「老後生活」に直結する

   社会問題でもあり、事は重大、決して他人事とも思えない。

   こうした中で、委託契約をしていた「ライオン(株)」が、昨年12月に契約を

   解除し、「危機一髪」で被害を免れたことは注目に値する。

   同社の2月29日付け「広報」によると、「2011年12月末をもって、AIJ投資顧問

   のフアンドを解約し、2012年1月に委託残高全額の入金を受け入れており、

   当社年金資産への影響なない」 としている。

   担当者によると、今回の解約は偶然の結果で、別の契約先のコンサルタント

   から「情報開示が不十分・・」という助言を判断の参考にした。という事の

   ようである。

   その通りとすると、どうやら危機一髪、回避の「岐路」は、「資産の運用先を

   定期的に見直していた」かどうか、ということにありそうである。

   「定期的な見直し」で、全てのリスク回避が出来るわけではないが、

   少なくとも、最低限の「必要条件」であったことは間違いない。

   一旦契約すれば、任せきりの風土からは、危機回避の可能性は生れない。

   今回、「偶然」の結果であったかもしれないが、やはり「日頃の行い・気配り」

   の大切さを改めて思い知る「教訓」でもあった。

解散風

   解散風が、ちらほらと吹き始めているらしい。

   与野党の党首が極秘で会っていたというのも漏れ聞こえている。

   「話し合い解散」の摸索ということらしい。

   そのうち、「国民に信を問う」という言葉が、正義の御旗の如く

   飛び交うことになるかもしれない。

   なんだか変ではないか!

   今の状況のままで、国民に何を問うのか?

   今の政治は、「○」か 「×」か、を問うのなら解かる。

   政党政治の体をなしていない現状でなにを選択しろと

   言うのだろうか。

   消費税問題1つ取上げても、政党内で意見が分かれている状況である。

   勿論、様々な意見はあっていい。

   解散するのなら、国民が判断・選択できるよう 「整理整頓」することが

   大前提である。

   その場限り、即製の「マニフェスト」で、「信を問う」という愚行を

   繰り返してほしくない。

   これは与野党共々に言えることである。

   その結果、選んだ国民にも責任がある、といわれるのはたまらない。

   まあ民主主義のなんたるかは理解しているつもりだが・・・。

   このような言葉は使いたくないが、

   決断出来ない、実行出来ない、解決できない、政府なら

   「機能不全」「無政府状態」といわれても仕方ない。

   もし、解散で、信を問われたら、国民もここは1つじっくりと

   考えないと、 「坂の下の水溜り」である。

  

   

   

「自然災害」に思う

   まもなく 3・11日をむかえる。 丁度1年である。

   この間、復興への政治システムに、苛立ちの念を持ちながらも、

   自然災害に対する、国民的関心が高まり、様々なところで、あるいは機会に

   その考え方や、対策の議論が活発になされているところである。

   こういった中で、今回共感したのが、玄侑宗久氏(作家・福島在住住職)の

   「防災」に関する次の意見である。

     「 津波を上回るような巨大な防波堤を造って、海と敵対するような

      ことはやってほしくない。

      コンクリートの壁を造らないことで、津波を思い出す。

      これで大丈夫というやり方をすれば、災害を忘れてしまう。

      と、方丈記に書かれている」

   というものである。

   勿論、防波堤はないより、あった方がいいに決まっているし、現状

   津波の事は思い出したくもない、という方もおられるだろうが、

   人間としての姿勢、心構え、の意と解釈している。

   常々、自然対策としては、特に津波などの場合、対峙し防衛(防災)するという

   思考よりも、如何に速く察知し、逃げ、安全な場所に身を置くか、の視点で

   衆知を集めるべき、と考えていたので、素直に共感できたのである。

   同様に、「防災」よりも「減災」の視点が大事、という考え方にも、

   一理あるな、と思うのである。

   言葉のニュアンスであり、世間常用の「防災」でかまわないのだが、

   対策の理念はやはり「減災」の方が、実際的である。

   「自然災害」に対する備えは、これで充分ということがない。

   直下型地震云々・・、と言われても、多くの首都圏に住む人々が

   離れられるわけでもない。

   それだけに、我々に出来る事、備えるべきことは、如何に災害を

   小さなものに留めるか、即ち「減災」の思考で、夫々が出来うる限りの

   備えをしておくことが、現状現実的な「自然災害対策」という事になる。

   あれから1年、今そんなことを思っている。

マルコ・ポーロの謎

   歴史上の人物には、何がしかの「ミステリアス」な部分を有している、という

   説がある。

   後世、「真実」として伝わっている事柄であっても、果して本当のところは、と

   謎に満ちていることが如何に多いかという事である。

   歴史そのものが、勝者によって、認められるという「法則」もある。

   換言すれば、歴史は、「推測」によって成り立っている、ということなのだろう。

   さて、「マルコポーロ」については、「東方見聞録」で、日本を「黄金の国、

   ジパング」として、当時の西洋に紹介した。 というレベルの常識を

   知っていれば、一件落着である。

   ところが、この「マルコポーロ」 結構知られていないことが多いのである。

   まず、「東方見聞録」は、彼が「書いたものではない」ということが

   案外知られていない。

   実際は、彼の口述を、著述家の「ダ・ピサ」が書きとめたもの、とされている。

   (これ自体も推測)

   マルコ・ポーロ(1254年生まれ)は、17歳のとき、父等に連れられアジアに

   向けての旅に出る。

   それは24年間にも及び、中央アジア、中国(元)に留まっていたとされる。

   40歳過ぎて、帰国後、ジェノバァ戦争に志願、捕虜となり、投獄され、

   その中で、囚人相手に話して聞かせた内容を、「ダ・ピサ」が自分流に

   大きく「脚色」して出来上がっていったのが「東方見聞録」のモト本という

   わけである。 (これも推測)

   写本が140種類もあるうえに、言語が多種類に及び、その過程で、内容も

   マチマチになるところも多く、現在「東方見聞録」として、定着しているのは

   100年も200年も後に、書きまとめられたもの、という説もある。

   このような状況から、今日においても、

   日本に来ていないことは事実としても、中国(元)にも行っていないのでは

   ないか、という説や、実在否定説(見聞は情報の寄せ集め)まである始末である。

   また、実態は諜報活動家、あるいは、元のクビライに取り入れられ、元の

   諜報家となったため、当時の公式記録に記述が少ないという説まである。

   なお、24年間の大旅行の後、帰国して、45歳にして、結婚し、3人の子供に

   恵まれている。(これは本当?)

      歴史は、正しく 「ミステリアス」 の宝庫 なのである。

   

   

    

   

   

図書館・今昔

   明治新政府も、結構やるじゃないか、と思うことの1つに、

   明治5年に早くも、近代的な図書館を設立していることがある。

   未だ、体制がはっきりと固まっておらず、(西南戦争は明治10年である)

   流動的な動きのなかで、やるべきことを次々と実行に移しているのは

   今日のより進歩し、成熟した社会からみても、彼らの進取の精神が

   伝わってくる思いがする。

   図書館の新設は、福沢諭吉が、西洋見聞から持ち帰って、わが国にも

   必要と、推進したらしい。

   湯島聖堂(旧昌平坂学問所)の「書籍館」である。

   その後、幾多の変遷で、東京図書館。上野の帝国図書館と引き継がれ、

   今日の「国立国会図書館」へと結び付く。

   モノの本によると、上野の帝国図書館には、

   明治の代々の文豪たち、幸田露伴、夏目漱石、樋口一葉や、

   芥川龍之介、宮沢賢治 なども通っていた、とある。

   図書館の片隅で、漱石が黙々と書物に目を通している、想像した

   だけでも、面白い図柄ではないか。

   当時の館内の張り詰めた静寂さが伝わってくるようである。

   04030013            上野の帝国図書館の跡、現在は国際こども図書館

   戦後、昭和23年に、これらの流れとして 「国立国会図書館」が設立された。

   国会の付属図書館として、国会議員の調査研究、行政に寄与すること、

   及び国民に広く資することを目的とし、また国の中央図書館としての

   位置づけから、納本制度により、国内で発行された全ての出版物を

   同図書館に納入することになっている。

   現在、これらの主旨に基づき、多くの国会議員が、付属図書館として

   日常的に有効活用している。(事であろう・・・)

   さて、我々も、特にリタイアー生活組にとっては、図書館を如何に

   活用するかで、日常生活の中身が違ってくるように思う。

   街(市町村)の図書館で充分なのである。

   といって、暇つぶしにスポーツ新聞を読む、というのでは一寸寂しい。

   まあ活用方法は、人夫々ではあるが・・・。

   いづれにしろ、明治新政府(福沢諭吉) に感謝! 

    

   

   

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