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早熟の文学

   「恥ずかしながら」芥川龍之介を読み直している。

   羅生門、鼻、蜘蛛の糸、藪の中、杜子春・・・ 等々である。

   若き日、 どこかで読んだ「短編小説」

   今、70歳を前に、読み直している。

   「恥ずかしながら」というのは、我々世代独特の感覚かもしれない。

   若き日、今ゲーテを読んでいる、トルストイ全集を読んでいる、なんて公言するのは

   なんだか恥ずかしかったではないか・・・。

   わかる人にしか判らない感性である。 

   まあそんな事はどうでもいいのだが・・。

   芥川は、35歳にして自ら人生を終えている。

   彼の代表的な作品は、いわば20代の青年の「主張」である。

   だけど・・・、不思議な感覚だが、今、70歳近い自分が芥川の小説を読んで、

   20代の若造の「主張」と感じさせないのは何故なのだろうか。

   夏目漱石や森鴎外と同列の「文学」として捉えているのは、よく考えてみると

   面白い感覚である。

   現在の20~30代の作家の作品を読むと、どこかで「若造の・・」という感覚で

   読んでいることを率直に「告白」する。

   芥川は、15-6歳で、国内外の文学を漁っている。

   この早熟振りは、やはりタダモノではない。「早熟」そのものである。

   芥川がやはり「特殊」なのであろうか。

   35年間の凝縮された芥川の人生。

   母親の精神の病いと、芥川の思想の関連性。

   すでに万人が取組んできているが、好奇心をそそるテーマではある。

   そんなことを、68歳の読書人が、気侭に思い浮かべながら

   彼の短編小説を読み直しているのである。

   

    

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