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2012年7月

混迷の遠因

   大小に係らず、失敗、混迷、頓挫、には必ずそれに到る原因がある。

   政権交代(民主党政権)も、現状、大方の期待を裏切る結果という声が

   大勢を占めている。

   政権交代そのものが、否定されているわけではないが、やはり、政権与党の

   「政権能力不足」は否めない。

   一方の野党(自民党他)も、今1つ支持率が伸びないことも、日本の政治

   自体の現況を示している。

   今回の政権交代が、なぜもう少し上手く機能しなかったのか。

        (政策の中身については、人夫々の考え。ここでは脇に置く)

   今後、多くの専門家によって、よりまとまった形で、分析、考察がなされるで

   あろうが、この段階で思うところを記して置きたい。

   勿論、混迷の原因は、1つではなく、様々な要因が複合的に影響し合い、

   結果として、成否を分けることになったのであろうが、あえて1つに絞って

   考えてみたい。

   結論的に言えば、

      「官僚との敵対化」がその遠因ではないか、と考える。

   逆説のようだが、「官僚主導から政治主導」の真意というか、本来の

   ところを間違えてしまったのではないか。

   「政治主導」を、安易に「官僚押さえ込み」と単純に考えスタートしたこと、

   そもそも最初のボタンの掛け違いではないか、と考えるのである。

   結果として、官僚を「味方」にするところを「敵」にしてしまった。

   「政治主導」と、如何に官僚を取り込み、言葉は悪いが、如何に官僚を

   「使いこなすか」 は、矛盾しない。

   その辺を間違えてしまった。

   多少なりとも、組織に係りを持った人なら、組織を軌道に乗せるためには、

   既成の「勢力」との調和に最も気を配り、骨身を惜しんではならないところ、

   と同意されるに違いない。

   「協調」と「いいなり」は全く別物である。

   どうも、政権与党として、機能しなくなった遠因はそのような事ではないか、

   と考えるのである。

   いい悪いは別にして、今までの自民党政権は、官僚という強固な「岩盤」

   の上に根を張っていたこその「長期政権」ではなかっただろうか。

   勿論、そのことによる弊害についても周知の通りである。

   然るに、民主党政権は、あまり深く考えることなくこの「岩盤」を手放した。

   と、いうように見えてくるのである。

   この岩盤から、遊離してしまった。

   狙いはそれなりに分かるが、所詮空中に浮遊した組織は弱い。

   空中分解へのコースを辿る。

   困った挙句、岩盤に寄り添っても、足元を見られる、という事態に陥る。

   本来、多くの有能な官僚達に、新政権は魅力的、この政権に協力して

   いこうと思わせるかどうかが、成否の分かれ目でもあった。

   それでも、当初は、官僚からも期待が大きかった筈である。

   ところが、その後、政治主導を初めあらゆる考えにブレが生じ、官僚の

   間からも、期待から失望の流れが出来てしまった。

   まあこんなところが、わたしなりに思う混迷の遠因である。

   

   

    

   

   

   

教育の現場

   大津のイジメ問題。刑事訴訟にまで進むようである。

   教育現場には疎いが、事の様相が明らかになるに従い、こころが滅入る。

   ましてや、同じ年頃の子供を持つ親にとっては、無関心では居られない問題

   であろう。

   それだけに、例によって様々な立場の人達が、この問題について

   コメントを発信しているが、正直、なるほどと胸打たれるものが少ないのが

   気に掛かる。

   いわゆる週刊誌ネタレベルの議論や、

   「イジメはいけない」と長々と正論?をはかれても・・・。

   「 学校はもっと生徒一人ひとりに気を配れ」と立派な訓示を聞かされても・・。

   いま一つ ピンとこないのである。

   それほど、問題の根が深いということでもあろう。

   そうした中で、ある視点から、問題点を浮き彫りにし、現状の教育現場の

   実態を教えられ、考えさせられたものがあった。

   要約すると、

     今の教師は、山のような報告書作り、リポート作成、学習プログラムの

     作成と 校長への経過報告作成 等々。

     子供と向き合い、一緒に遊び、スポーツをするという時間よりも

     職員室でパソコンに向かうことに追われている・・・ という実態。

     これらが、教育委員会の「教育指導」であり、これをきちんとこなす

     事が最優先に「人事」に直結するというシステムに置かれている。

     本来の教師のあり方を追求する教師ほど、精神的に追い込まれ、

     自信をなくし、休職に陥る・・・という実態。

     さらには、書面(報告)の重要視は、何か問題が生じた時、

     説明できる証拠を残すため・・・ という暗黙の理由があるらしい。

        (この背景には、親からの非常識ともいえるクレームの増加、

         とその対応という実態があることも一面の事実)

   この際、これらの実態(教育委員会ー文科省方針)にメスを入れることが

   最重要ではないかという指摘である。

   教育の現場をよく知らない私にも、説得力ある指摘と受止めた。

   如何なものであろうか。

     

          

    

二つの記事

   上野動物園のパンダの赤ちゃんが生後7日で死んだ。

   死因は、母乳が気管支に入り、呼吸困難から肺炎を起こしたことによる由。

   パンダの誕生が、久しぶりの明るい話題であっただけに、テレビでは

   臨時ニュースでその死を伝え、新聞も1面でその死を報じた。

   このニュースは、多くの国民にショックを与え、嘆き悲しませることとなった。

   このニュースの裏で、偶然にも数日後、八景島シーパラダイスで、6月に

   生まれたばかりの 赤ちゃんイルカが死んだ。

   死因は、授乳が上手くいかなかったとのことである。

   地元新聞を中心に、小さな記事でひっそりと報じていた。

   まあ、それだけの話、といえばそうではあるが・・・。

   パンダやイルカにとって、自分たちが各々どの程度脚光を浴び、

   スポットライトを浴びる存在であるか、知るよしもないし、彼らにとって

   関係のない話である。が

   人間社会では、あまり深く考えられることもないが、日常的に生じている

   現象である。

   ある「バイアス」によって、「感情」が揺れ動き、「世論」になる。

   その世論で世の中が動く・・・事がある。

   パンダ イルカ 夫々の赤ちゃんに、  合掌。

   

 

   

政党の呪縛

   米国議会を盲目的に理想化するつもりはないが、

   少なくとも、いわゆる「ねじれ国会」に対して、その機能度合いを比較すると、

   米国の場合、あまり停滞という話は聞かないが、日本では、その停滞振りは

   悲惨である。

   大統領制に拠るところもあるのかもしれないが、もっと根本的に、日本の

   議会制度、体制に問題があるのではないかというのが、1市民なりの

   感覚である。

   政党政治の正当性については、一応理解しているつもりだが、

   最近、おぼろに抱いていた、これらの問題意識を、ズバリ指摘してくれた

   文章に接した。

   それをそのまま転記(一部要約)させて頂く。

      「民主主義の原則に立ち戻ってみると、議員は選挙区から選ばれ、

      与党か野党に所属しているが、選ばれた瞬間に、与野党を超えた、

      選挙区の利害も超えた、全国民の代表者になる。

      議員の義務は、全国民にとって利益となるような投票を議会で

      行うこと。所属政党の考えを離れて、いま、どう投票することが

      全国民の利益になるか、そのつど、判断する。

      結果、与党の議員だが、与党提出の法案に反対することもあれば、

      野党だが与党や政府提出の法案に賛成することもある。

      ふたを開けてみなければ、法案が通過するかどうかわからない。

      ここに説得の余地が生じる。

      説得の余地が生じれば、議会での議論が真剣味を帯びて、

      弁論のいかんによって、法案が通ったり、通らなかったりする。

      議員は(ひとりひとり)頭を使って、最後の瞬間まで、真剣に法案の

      行く末と、その是非を考える」 

                   (東工大 橋爪研究室  2011・11月収録)

   いかにも学者らしい論調だが、「政党政治の呪縛」 と 「議会の

   形骸化」に対する見事な警鐘と考える。

   日本の場合、こうならないのは、「党議拘束」があるため、と

   橋爪氏も指摘される。

   これがあるため、「党の立場がなによりも優先」 でかつ 「数の論理」に

   振り回されることになり、 法案提出の時点で、或る程度結論が読めてしまう。

   (したがって 国会での議論は空しく、形骸化・・・)ということになる。

   現状では、党の方針に反対を貫けば、「離党」を覚悟せざるを得ず、

   結果的に、付いたり離れたりということになってしまい、本来の「政党」としての

   主義・主張を同じくして・・というよりも、単なる「派閥」程度の軽さ、

   という実態に陥る。

   「政党の呪縛」を続けている限り、「ねじれ国会」での停滞、機能停止状態は

   免れない。

   なお、米国議員だって、利益代表は大勢いるに違いない。

   ただ、「民主主義も、努力し続けないと、濁ってくる」という意識度合いが

   どうも我が国の場合、戦後一貫して薄いのではないだろうか。

   

      

     

真実は語る

   社会人に成り立ての頃、調査畑に席を置いていたことがある。

   その頃、或る上司から言われて、今も骨身に浸みている言葉があった。

    「こう思う、こう考える、ということも大切だが、まず客観的な事実(データ)を

    明らかにしろ そのデータで真実を語らしめよ。

    (そのためには情報収集のアンテナ、取捨選択能力が不可避である)」

   と、いうようなことであった。

   当時は、果してこの主意を、どの程度理解していたのか、心もとないが、

   今思うに、新人に対するアドバイスとしては、いかにも適切なものであった。

   それに習って、1つの「歴史的」事実(事象)を、以下に記す。

   今から19年前(1993年)、当時の自民党から離党して立ち上げられた、

   「新生党」の基本綱領である。

       一.  わたしたちは、抜本的政治改革を速やかに実現し、国民の

           皆さんの参加、公開にもとづく新しい時代に即した民主政治を  

           実現する新しい日本をつくります。

       一、  わたしたちは、不況からの脱出に全力を挙げ、諸制度を緩和し

           社会的公正をはかりつつ、健全な市場経済を発展させる新しい

           日本をつくります。

       一、  わたしたちは、国際社会の責任と役割を自覚し、世界から

           信頼される新しい日本をつくります。

       一、  わたしたちは、 地方中心で、活力ある政治、経済、文化

           などを発展させる新しい日本をつくります。

       一、  わたしたちは、かけがえのない地球を守る新しい日本を

           つくります。

       一、  わたしたちは、教育を国つくりの根本とし、生活者の視点に

           立ち思いやりのある諸政策を実行し、充実した人生を送れる

           新しい日本をつくります。

   こう思う、こう考えるといったことはあえて語らず。

   それは、これを読んだ人、夫々である。

   

ある投稿

   新聞の投稿欄には、 時折 ハッとさせられたり、考えさせらりたり

   するものがある。

   「大衆の声」を聴く場として、貴重なページである。

   勿論、全ての主張に同調できるわけでもないし、夫々新聞社の

   モノサシ(取捨選択)に合うという前提も踏まえて、読み手側の

   「判断」は不可避である。

   ただ、少なくとも、文書という、「推敲」を必要とする過程を経ている

   だけでも、たとえばテレビの「大衆の声」(街頭インタビューなど)よりも

   遥かに「良質」と言えるのではないだろうか。

   さて、その新聞投稿欄であるが、ある日の新聞の投稿に思わず目を

   奪われた。

   それは、85歳の方からの投稿である。

   生ナマしい政局や、社会現況に関してではないが、深く胸に響くものであった。

   要約は次ぎのようである。

      「  67年前、初年兵の頃、上官から、 今日は何の日か と聞かれ

        七夕の日 と答えると、 非国民者め と鼻血が出るほど殴られた。

        1937年7月7日 中国盧溝橋で戦争を始めた日。

        その日をきっかけに日本は泥沼の時代に突入した。」

      そして、

      「  狂気としか言いようのない時代。

         七夕と答える方が異常な時代でした」

      と、書かれる。

      「 今年も七夕を迎えます。

        今年も 短冊に  戦争はゴメン と書きます。

        18歳の夏を思い出しながら  」

      と、いうものである。

   こういうものこそ ホンモノの「大衆の声」ではないだろうか。

   有識者や専門家の 饒舌な論調より、或る意味 説得力のある

   一文である。

   戦争なんて遥か昔のことのように思っているが、今、同時代に生きる

   人の「声」である。

   そう、今年も 七夕の日を 迎えます。       

        

   

言い得て妙

             - 分裂 ・ 離党 ・ 新党立ち上げ -

            趣味(道楽)も極めると、生き甲斐の境地になる。

   阿久悠(作詞家)が、生前 「政党というのは、芸能プロダクションに似ている」と

   言っていた、とある新聞が取上げていた。

   氏独特の批判精神、風刺である。

   タレントにとって、どのプロダクション(事務所)に所属するかは、

   タレント生命の死活に影響する。

   弱小の事務所よりも、大きくて業界内での力がより強いところに・・と

   いうのは人情である。

   バックアップ力も強く、活動の機会も多くなるという事なのであろう。

   先輩大御所(親分)の「引き」も期待できるというものである。

   といって、大きいところに入っても、全てのタレントが安閑ではない。

   そこでは、当然のように内部競争、軋轢、嫉妬などが渦巻く。

   拗れると、退社、転籍、引き抜き等の問題へと発展する。

   こう見てくると、なんだか 政治家と政党の関係に

   ダブって見えてくるではないか・・・。

   と、言おうものなら、

   政党とプロダクションを、同一視するとは何事か、政党というものは

   そんなものではない・・・ と、全ての政治家は反論するに違いない。

   全く、おっしゃる通りである。

   しからば、正論ではあるが、真っ向から反対仕切れない弱みを隠し持って

   いるのも政治家の哀しさである。

   政治家も人気稼業、タレント性を無視しえないところが、もどかしい。

   (生活)基盤のない人ほど死活問題には弱いのである。

   今日の「離党・分裂問題」も、こ難しい理屈は理屈として横に置き、

   政党=プロダクション というめがねを通して眺めると、単純にして

   明解な別の世界が見えてくる。

   政治家としての、良心、理念、矜持で離党を決意した人は果して何人

   居られるか。

   プロダクション的発想で、事務所に留まるべきか、思い切って離れるか

   「あの」人に付いていくべきか、いかざるべきか。

   ・・・・ まあ推測はこれ位にしておこう。

   それにしても、

     「 政党は芸能プロダクションの如し」 

   なんとも、「言い得て妙」ではないか・・・。

   

   

   

ゴジラのしっぽ(付記)

   東電を「ゴジラのしっぽ」と、 大口を叩いた。 ・・・ので、

   少々、補足をしておく。

   大胆かつ大雑把な「たとえ」で言えば。

   日本の「原発」は、 政府 (本社機能) と 電力会社 (工場)。

   即ち、本社、工場、(運命)共同体で推進してきた。 と 捉えている。

   原発という巨大事業を、本社、工場切り離して論じては、事の核心がぼやける。

   本社機能の執行メンバーには、工場(東電)の幹部も加わっている。

   「共同体」の所以である。

   今回、その現場(工場)で、事故が発生した。

   事故の直接の起因は工場(東電)にあることは動かし難い事実である。

   だが、運命共同体としての、本社機構は、これにどう対処するか、

   どう対処しているか、という視点で、一連の流れを見てくると、・・・・

   なんとなく「ゴジラのしっぽ」論が見え隠れしてきた・・・・という次第。

   勿論、私なりの独断に過ぎないが・・・。

   本社と切り離して、工場のみを対象に、原因究明、責任論、対策を

   講じても、真の解決にはならないのではないか、 という問題意識である。

   ほんの少し前まで、我が日本列島は、「民営化、民営化!」の掛け声で

   持ち切りであった。

   今回は、「国有化、国有化!」の嵐。

   公共事業(国営)で、制度疲労が露見すると、民営化!の声。

   民間企業で問題が生じると、政府介入(人と金・・・金は税金)

   これで、なんとなく一息・・・ 結構いい加減なものですネ。

   まあ「結果オーライ」ならなんでもいいのだけれど・・・・。

   

   

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