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2013年1月

平成の武蔵

   宮本武蔵といえば、小学生でも知っている剣豪。

   「武蔵」と書いて、「ムサシ」と読む事だって、大概誰でも知っている。

   ところが、この「武蔵」  なぜ「ムサシ」と読むのかご存知か?

   「武」を 「ム」と読むのはなんとなく解かる。

   問題は、「蔵」を 「サシ」と、どうして読めるのか・・・・。

   実は、国語の先生だって、明解に説明できる人はほとんどいないらしい。

   勿論、私も不明の一言。

   生まれる前から、皆が「ムサシ」と読み、これは「ムサシ」と教えられ、

   その通りこの漢字をみると機械的に「ムサシ」と読んでいるに過ぎない・・・。

   とまあ、読み方なんてこの程度のいい加減さ。

   講談では、幼名「タケゾウ」と、呼ばせているが、 いつまでも

   剣豪「タケゾウ」ではいかにも弱弱しい。

   そこで得意の「講釈」で、剣豪「ムサシ」見参と相成る。

   一体、武蔵本人は、自分のことをどう呼んでいたのだろうか、と

   変なことを夢想してみる。

   さて、読み方のルーツ検証は、専門家に任せるとして、

   武蔵といえば、二刀流であるが、 平成の今日、 二刀流といえば、

   日本ハムの大谷が連想される。

   聞くところによると、野手(打者)、投手どちらも 捨てがたい逸材とのことで、

   「二刀流」でやらせてみるか、ということらしい。

   専門家筋の大方の見方は、どうやら消極論らしい。

   無謀、無理、そんなに甘くない、等のニュアンス。

   まあ、常識的な見解ではある。  が、そこはそれ、 プロ野球も

   フアンあっての職業野球。

   技術論やプロの実態はさて置き、 ここは1つ、関西風のノリで、

   「やってみなはれ」 ということで如何。

   高校野球だって、投手で4番なんてのが、ゴロゴロいたものである。 と

   あまり説得力のない理屈。

   勿論、この二刀流、最終的な決断はあくまで本人の意志。 と

   良識ある大人の見解で、締めくくっておくことにしよう。

   それとあとは、監督がどう采配するか、 その手腕如何!

   

様々な暴力

   今回の「体罰問題」

   様々な角度から、考えさせられる事件であった。

   すでに、多くの識者、関係者からの意見が発せられており、同調の

   感想は控えるが、1つ、関連の事実に対する批判を目にし、

   見過ごすことの出来ない指摘、と私なりに受止めた。

   ある評論家の、今回市長の対応についての記述である。

     「 従わなければ予算を凍結する、という制裁をちらつかせ、

      教員の総入れ替えや、入試の中止を迫る。

      こうした手法を民間では、脅しという。 暴力の一種である」

   というものである。

   さらに、

     「 その脅しに屈する形で、市教委は、入試中止を決める代わりに

       普通科として募集という、折衷案。 なんとも老獪、卑屈な判断。」

   とし、また

     「 従来、市長は学校や教師に対し、成果主義を迫り、従わなければ

       ペナルティを科すと脅してきた。これは学校の体罰と同じ構図

       ではないか」

   とし、 これらを 「暴君による圧制」と 論じている。

   これら一連の流れについては、 報道の範囲内でしか捉えておらず、

   軽々な結論は避けるとしても、上記論評には、核心を突くものが

   覗える。

   果して、地元の教育関係者、先生、生徒、一般市民等々は、

   今回の措置、どのように受止めているのだろうか。

   少なくとも、この「体罰問題」 一過性で終わらせるようなものでは

   ないようである。

   一方、 別の識者から、この「体罰問題」に関連して、次のような

   指摘があった。

     「不幸にも1人の生徒の自殺によって、体罰問題が浮き彫りに

     なったが、残念ながら、従来より日常的に暴力問題はある。

     今回はスポーツ監督者の体罰だが、学校における暴力問題は

     実は、キレる生徒による先生に対する暴力の方が 根深く、深刻な

     面がある。

     立場上、泣き寝入りが大半で、どうしても教師側に負荷がかかり、

     精神的に追い込まれ休職に至るというケースが驚くほど増えている。」

   というものである。

   確かに、必ずしも「暴力問題」だけではないだろうが、最近、精神的に病む

   教師が急増し、教育分野での重要問題の1つになってきているところがある。

   これら、様々な意見が飛び交うなかで、今回の「体罰問題」を契機に

   今一度、我々を取り巻く様々な「暴力」について、「目を光らせる」ことが

   必要となろう。

   

     

ビューティフル・ショット

   今は見る影も無いが、これでも若い頃、バスケット・ボールに打ち込んでいた

   ことがある。

   関東実業団 (といっても下の方のリーグ)に所属し、 リーグ戦では、

   勝った負けたと一喜一憂、それなりに情熱を燃やしていた時代があった。

   そんなある日、 アメリカン・スポーツクラブの連中と親善試合をしたことがある。

   メンバーのなかに、確か雪村いづみの 当時の旦那がいたこともご愛嬌。

   今も記憶にあるのは 実は試合そのものではなく、 (試合の方は確か負けた筈、

   身長の差でということにしておこう・・・)

   妙なところで、 流石は本場(?)の連中、と感じ入った事がある。

   彼らが、好プレー(シュート)に対し、「ビューティフル(ビューティ)」と、声を

   掛け合うのが、なんとも粋で、洒落ているのである。

   我々の場合、今の若者は知らないが、それまでどのスポーツも、大概「ナイス」

   である。

   「ナイス・プレー」 「ナイス・キャッチ」 ・・・で育ってきた。

   それが突然 「ビューティフル」ときた、から驚いた。

   ・・・・ とまあ、 他愛のない 半世紀近くも前の思い出話である。

   

   さて、前置きはこれくらいにして・・・

   年明けは、箱根駅伝に始まり、 サッカー、ラグビー、バスケット等

   スポーツ花盛りな時期である。

   どの競技もそれなりに興味深いが、今回特にバスケットは圧巻であった。

   周知の通り、企業本体の事情から休部が決まっている、パナソニックが

   チームとして最後の天皇杯(全日本総合)を、見事制したのである。

   文字通り、日本人好みの筋書きともいえる。

   しかも、試合内容自体、前半14点の差を盛り返し、

   シーソーゲームの末に3点の僅差(64対61)で、ようやく勝利を

   ものにするという劇的なものであった。

   テレビ観戦ではあったが、

   彼らの勝利への熱気が充分伝わる好ゲームであった。

   当日(14日)は東京も大雪、試合開始も遅れたが、始まる頃には

   観客も満員だった由。

   パナソニック 逆転のきっかけは、木下の連続3点シュートである。

   これぞ正しく、絵に描いたような 「ビューティフル・シュート」

   人生には様々な「物語」が満ち溢れているものである。

   

   

   

   

豊富な抱負

   1年の計は・・・・。

   我が生活を顧みれば、ここ数年、新しい年を迎えて仰々しい「抱負」を

   掲げるという事がなかった。

   抱負 夢 計画 課題・・・・ 等々無縁の 行き当たりばったりの人生である。

   それはそれで、結構様々な事象が目の前に現れ、それなりにこなしてきた

   つもりではあるが・・・。

   流石に、これではならじと ふと 反省の色濃く浮かびあがり、

   せめて1つ位は なにか今年の抱負めいたモノをと 考えてみる。

   いかんせん、あれもこれもと「豊富」な挑戦項目が次々と

   湧き出る年でもなし。

   ようやく 1つ思い付いた。

   よし今年はこれに挑戦してやろう。( 蔭でその決意もいつまで・・・と坊主が笑う)

   幸いなことに、辞書によると、

   「抱負」とは 「心の中」で抱いている考え、計画、決意 とある。

   抱負の中身は私の心の中に仕舞っておくことにしよう。   

   

大空への憧憬

   「ごまめはマメになるように」

   御節料理に選ばれる具種には、夫々正月に相応しい謂われがある。

   なかには、こじ付けの類もあるが、まあこれもご愛嬌である。

   これに習い、正月に絡めて、なんら学術的(?)な裏付けのない想像の世界。

   古来、正月の子供達の遊びの定番は、凧揚げや羽根突きであった。

   正月に凧揚げをする・・・・ 歴史的経緯は全く不案内だが、

   素人感覚で、思い巡らすと、もしかして 大空、宇宙、天 に対する

   「信仰」めいたものとも関係があるのでは・・・ と思ったりするのである。

   新年に大空を仰ぐという素朴な信仰である。

   一方、手鞠も,元々 新年の季語で、正月の遊びであったらしい。

   これをこじつけて考えると、手鞠は、大地に対する畏敬、表敬の表れであり、

   大地との会話、と捉えてみると結構面白い。

   天と地に対する畏敬の念が、新年の祈りの変形として、いつのまにか

   凧揚げや手鞠として、正月の子供達の遊びに伝承されてきた・・・・ というのが

   私の新年最初の「迷説」である。  とまあこれもご愛嬌。

   ところで、

   新年早々、自然科学研究機構が、「地球外生命体」の探査研究に

   乗り出すとの新聞報道があった。

   口径30メートルの高感度巨大光学望遠鏡をハワイに建設し、生命が

   存在する可能性のある惑星を本格的に探すというものである。

   地球上の人類の歴史も、また新しい次元に突入することになるのだろうか。

   このチャレンジの原点も、子供の頃夢中になって大空を仰ぎ見た、

   あの「凧揚げ」の延長線上なのであろう。

冬の庭

   京都のある高名な庭師が、

   「庭というものは、 冬の庭に限る」 と 言うのである。

   冬の庭は、誤魔化しのきかない、素の庭が現れるから ということらしい。

   木枯らしでほとんどの葉が舞い落ち、幹と枝だけが織り成す、

   一切のムダのない絵画のような世界。

   そこに庭師としての、真の技、心意気、思想が現れる、というのである。

   一見、春や秋の庭は、絢爛豪華で見る人を圧倒する。

   櫻、青葉、紅葉・・・ それはそれで 見る人を楽しませてくれる。

   だが、本当の「庭」の極み、庭師が目指す境地は、もっと深いところにある。

   手を抜くことが許されない、ごまかしがきかない、それが

   「冬の庭」に現れる。 というのである。

   なるほど、突き詰めた領域に在る人々にとっては、そういうものかと

   感心するばかりである。

   そういえば、 あらゆる芸術、文学、音楽などにも、 なんだか共通する

   のでは・・・と 漠然と想像する。

   なによりも、 我々人間にも当てはまるのではないだろうか。

   あらゆる装飾に頼らない 素の人間。

   確かに、冬の庭のように 凛とした力強さがある。

   

新たな年

   東京では、新年に相応しい快晴の3ヶ日であった。

   初日の出は、身の引き締まるような神々しさ。

   今年も、なんとか平和で安全を・・・・と 祈願。

   正月も、それなりの歳を重ねると、年頭の想い・・・・・も、

   結局、「ありふれた日常」が一番 というところに落ち着く。

   分相応に、日々を過ごす事ができれば・・・・。ということか。

   考えてみれば、人生の意義なんて、ほんの身近に潜んでいるもの、

   かもしれない。

   なんということもないほんの些細な・・・ だからこそ

   一生気付かないモノ・・・・  かもしれない。

   元旦早々、酒盃を片手に、オー・ヘンリーの「最後の一葉」を再読する。

   ところで今年はどういう年になるのだろうか。

   元旦の朝早く、いつものように散歩に出かけ、偶々1枚の写真を撮った。

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              まだ 薄暗い 水底に 1匹の白色の鯉。

              じっと 世の動静を 覗っている図か

              それとも 独自の世界に 悠々と佇む図なのか

              しばし、この鯉との会話を楽しむことにしたい。   

   

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