« 2013年6月 | トップページ | 2013年8月 »

2013年7月

みんな一緒に

    河合隼雄(臨床心理学者)の、エッセーだったか、対談集だったかに、

    今も記憶している面白い論述があった。

    その概要はこうである。

       日本人は、生まれてから死ぬまで、一貫してある1つの『価値観」に

       縛られて生きているところがある。

       「みんな一緒に ・ 明るく元気に」 という事である。

       これを絶対的 「善」として信奉している。

       したがって、子供たちには、当然の如く 「みんなと一緒」 が1つのモノサシ

       になり、 「明るく元気に」がなによりも親や先生の願いとなる。

       大人からみて それをクリアーしている子が 「いい子」になり、

       その枠から離れれば離れるほど 「問題あり」とされる。

       だけど、よく考えてみると、子供だって時には、1人ぽつんと

       空の雲を見ていたい時があるに違いない。

       読みさしの絵本に夢中になり、最後まで読みきりたいと思うことが

       あるに違いない。

       子供たちも、夫々独自の世界があり、時には1人きりで夢中になる

       ものを得る事だってあるに違いない。(その経験こそ大切)

       1つの枠に押し込める事こそ悪弊である。

       これらの「価値観」は子供に向かうことだけに限らない。

       たとえば、老人ホーム、老人クラブ等でも、この「みんな一緒に」

       「明るく元気に」の標語は生きている。

       ここでも、それをクリアーしていると「いい人」という評価を得る。

       そのため 自然に皆「明るく元気に」振舞うよう 「頑張る」。

       実際大人は、四六時中 常に「明るく元気に」というほど、単純な

       ものではないはず。

       何故、大人も 子供たちも いつも「明るく元気に」 していなければ

       いけないのか・・・・。

   というものである。

   なるほど言われてみれば・・・ということで記憶に残ったものである。

   1つの「価値観」で括れるほど人間は単純ではない。

   仲間内でわいわいといいたい事をいい、騒ぎ・・・という時間も至福であり、

   また時には 誰とも会いたくないメランコリーな気分 というのも避けがたい

   現実的な一面であり、それだからこそまた生身の人間として面白い

   ところでもある。

   親の立場からは、子や孫が 「みんなと一緒に」 「明るく元気に」遊んで

   いるのをみると 「安心」である。 それだからこそ、時には 一定の

   枠に押し込めるという悪弊に染まっていないかを見直すことが大切と

   氏の論述から教えられた事であった。

      

       

往年の勇士

    昨夜は、久しぶりに 東京ドームで 野球観戦。

    といっても、現役のプロ野球ゲームではない。

    プロ野球、OB達による 「ドリームマッチ2013」

    昨今、大相撲の力士名もそうだが、 野球選手の名前を聞いても、

    全く知らない選手が多くなった。特に各球団の外人選手はほとんど

    判らない。

    先日の 『オールスターゲーム」での、球界を代表する選手達ですら、

    ほとんど馴染みのない選手たちばかりになってしまった。

    これも 時の流れ、歳を経たということなのか・・・。

    その点、時代、時代、で活躍した OBたち、は 夫々にそれなりの記憶が

    蘇り、目の前のプレーそのもの云々よりも、 ある種の感慨を持って、

    彼らのゲームを楽しむことができた。

           桑田 と 古田の バッテリー

           バース、掛布 岡田  のクリンナップ

           工藤、与田 東尾 等 のピッチング

           古田 元木(本塁打) 片岡  篠塚 等のバッテング

           代打 山本浩二 (ご愛嬌)               等々

    

    勿論、皆 現役時代の勇姿を期待することはできないが、それでも

    一寸した しぐさ、 クセ などが、現役時代そのままというのが

    なんとも微笑ましい。

    頭(気合い)は、現役時代のままとしても、いかんせん身体がついていかない、

    そのギャップが、観客にまで伝わってくるのが面白いところでもある。

    頭脳面といえば、OB戦とはいえ、外野手が皆、打者一人ひとりに対し、

    大きく守備位置を変えていたことが印象深かった。

    なんでもない一寸したことだが、長年の経験・蓄積が身体に浸み込んで

    いるものなのか、流石は往年の勇士たちである。

    ゲームの結果、内容云々よりも

    まあ、文字通り、夏の夜の 『ドリーム」であった。

      

一つの所感

       - その男 特殊につき -

   正直に言って、本来 関心の外に位置する人だが、 今回 参議院に再度

   立候補し当選したこの『現象」について、賛否交々少なからず考えさせられる

   こととなった。

   マスメディアの『意図」もあったのか、選挙期間中も当選後も、テレビ画面では、

   ほとんど、 『元気ですか!」という場面しかお目にかからなかった候補者である。

   人夫々で、それを軽々に非難するわけではない。

   社会保障や経済対策等々、山積する諸問題はさて置き、この『短い一言」で、

   有権者の票を集められる底力に、少々畏敬?というか興味を持ったのである。

   ある番組で、 「貴方は、党のマニュエストを読みましたか?」という質問を

   受けていたのが極めつけ。

   今後6年間、 どういう政治活動をするのか、益々野次馬的興味が高まる

   というものである。

  

   よくよく考えてみると、(あくまで推測に過ぎないが)、彼を国会に送り出した

   支援者は、元々彼に『普通の議員」を期待しているのではないのであろう。

   彼に、やれ憲法だ、経済対策だと、党の政策を細々と訴えられても、

   困惑するだけではないか。

   やはり、『元気ですか!」の一言で 『安心」し、なんらかの『閉塞する日常

   の変化」を求めて一票を投じたのではないだろうか。

   恐らく、通常の枠に収まる参議院議員として、彼を論じようとすれば、

   「貴方は、政治家として一体何をしたいの?」の一問で終ってしまう。

   多面、今回の選挙を見ていても、彼の『戦術」は、『電通」も顔負けの

   見事なもの、ともいえる。(結果的にも当選したのだから。好き嫌いとか

   いい悪いはまた別の話)

   そもそも、今までの彼の生き様そのものが、見事な『戦略・戦術」により

   成り立っているという点も忘れてはならない。

   70歳台になった今もなお、 現役時代に培ったイメージ やポジションを

   維持するための数々の『仕掛け」や『挑戦」は、それなりに見事である。

   今回も当選するための自分のイメージの構築がよく判っており、

   たとえば、東大→官僚→政治家 といったエリートコースとは、対極の

   世界に生きる逞しさといったところを打ち出したのではないか。

   これらエリートコースの正統派政治家に失望しつつある人々に、

   (理屈を抜きに)共感を与えた、という点も見逃せない。

   通常の枠を超えた、破天荒な実績、 を期待したいところである。

   『元気ですか!』 に対する返歌は、 「その男、特殊につき」 である。

背の丈

     一説によると、 『弥生時代」に 飛躍的に大きく伸びたという。

     日本人の 背丈の話である。

     何故その時代に伸びたのかは 定かではない。

     あくまで 『一説」である。

     とまあ、あやふやな話はさておき、

     一応、今日 通説として生きているのは、

     平安、鎌倉から 江戸、明治に掛けて、永らく 日本人の成人男子の

     身長は、大体 160cm 程度以下で推移していたであろう、ということになる。

     義経、家康、秀吉 等々 大概の歴史上の人物は、150~160cm台で

     あったらしい。

     現代の若者(平均身長171cm)からみると 『微笑ましい」位である。

     勿論、人間の背丈は、その優劣とは全く関係のない話である。

     それにしても、 戦後の日本、歴史の流れからみると、ほんの短い期間で 

     あれよあれよと言う間に、かくまで平均身長が伸びたことには、驚きの

     一語である。

     食料(栄養)面、生活様式 等々、専門家によってその理由が語られては

     いるが・・・ それにしてもである。

     これほど短期間での『民族」の変貌は、驚異的でもある。

     ところで、現代人、一回りも二廻りも大きく、立派な体格になっているが、

     それに反し、 人間が『小粒』 『小物」化 しているのは、なんとも皮肉。

     というのがこの話での『オチ」。

     こんな事をつらつら思うきっかけは、『参院選挙』以外に、偶然、次の

     データに出くわしたことによる。

               身長   158.7cm

               体重   52.31k

               胸囲   79cm

     これは、  夏目漱石 22歳の時の数値である。

     因みに、 同世代の文豪 森鴎外の身長は 161cm。

     現在の基準に照らすと、 文字通り、 小さな 『巨人」 であった。    

     

     

暑中の競演

   寝苦しい夜が明けて、 午前5時台。

   太陽の光は眩しく爽やかだが、 これが 6時を廻るころになると急に

   熱を帯びてくるのが、肌で実感する。

   今日もまた、ぐったりとするような 暑い日を迎えるが、

   身近な廻りにも、小さな『贅沢」はあるものである。

   散歩の折に撮った数葉。

   夏の光のなかで、しゃきっとと背筋を伸ばして咲く向日葵。

   微かに揺れ動く ラベンダーの群れ。・・・・・・・ 

   花々の競演である。

Dsc00055

 Dsc00051     

  Dsc00052

Dsc00056

Dsc00059

Dsc00065                 ( 国分寺  姿見の池)  

右か左か

          ー  右か  それとも  左か  それが問題だ! -

   すでに巷間知れ渡っているので、いまさらの感があるが、

   たとえば、新幹線で東京から京都に行くとする。

   東京駅のホームに駆け上がる エスカレーターは、当然の如く『左側」に寄って

   一列に並ぶ。

   これが、京都に着くと、『右側」に寄らないと和を乱すことになる、という

   なんとも不思議な『社会現象」が生じているのである。

   まあこの程度の相違は、順応性豊かな日本人にとっては、パニックに陥る事も

   なく、極く自然に 『右側」に寄って協調性を発揮する。

   流石に教育普及でトップクラスの国民性のことはある。

   ところが、流石の日本人も、この順応性の枠に収まらない事態がある。

   周知の通り、我が国では 、道路交通法で車 (自転車も)は、『左側通行」と

   定められている。

   これに対し、人の歩行は 戦後 『対面交通」の考えから、『右側」に寄ること。

   すなわち 『右側通行」が原則で、今もこのルールが生きている。

   車や自転車は 『左』だが、 人は 『右」である。

   このルールには、流石の日本人も順応不可で、ある調査によると、商店街の

   人の流れや、施設内の廊下等、70%以上が『左側通行」とのことである。 

   当然といえば当然の事で、あえて対向車(右側)の方に寄って歩くよりも、

   車や自転車の流れ(左側)に沿って左に寄る方が極く自然な感覚といえる。

   思い返せば、私も自然のままに『左側通行」が習慣的である。

 

   ヒマに任せて、街の交通巡査に聞くと、通常の場合、人の歩行については

   取締り規制の対象外で、マナーを守って頂いていれば(迷惑条項等)

   自由にお歩き下さい、とのやさしいお言葉。  

     (確かに、右だ、左だと、歩行にまで監視されるような世の中は御免蒙りたい)

   1つ気になる事は、子供たちへの交通ルール指導についてである。

   聞くところによれば、当然のことながら、「道路では右側通行」を

   指導されている由。

   間違っているわけではないが、なんとなく『大人の建前論」という気が

   するのだが・・・果たして如何なものであろうか。

   いずれにしろ

    古来より 右か 左か ・・・・ 厄介なもの?である。

   

暑中に想う

            「第二院(参議院)は、何の役にたつのか

             第一院(衆議院)と 一致するなら 不要。

             異なれば 有害 」

                ー  シェイエス (フランス革命の指導者) -

   時節柄(参院選挙の最中)、 特定の政党や、個々の候補者について

   アレコレ述べる意図は全く持っていない。

   思いつくままの、一寸した 「そもそも論」についてである。

   この猛暑の中、奮闘中の各候補者には、同情申し上げるが、

   正直に言うと、この選挙、1国民として平均的な関心を持ち合わせてはいるが、

   今1つ「気乗り」がしないところがある。

   今の 「参議院」 本当に必要なのか・・・ の「そもそも論」を引き摺っている

   からである。  どうもよく解らない。

   愚問だろうが、全候補者に 「参議院は本当に必要とお考えですか?」 と

   聞いてみたい位である。

   

   「二院制」の前提とするところは、夫々が「異質」な存在、ということであろう。

   「異質」であるがゆえに 制御という機能が期待される。

   ところが、今の二院制 枝葉こそ違うところがあるが、根は「同質」と、

   私にはみえる。 「同質」の組織が2つあることによる非効率性ばかりが

   私には見えるのである。

   偶々、同じ土俵が2つあるので、同じチーム(政党)から夫々選手を出し、

   2つの土俵で勝った、負けたといっているように私にはみえる。

   「根は同質」の所以である。これでは本当の『制御」は期待できない。

   「ねじれ解消」 いや 「保持」、 という議論になるわけである。

   「参議院」の存在意義とは、一体何なんだろうか・・・。

   民主主義の基本原理は、『主権在民」ということであろう。

   もし、民(たみ)によって、主権が完璧に機能している状態であれば、

   二院制は必要ない、一院で充分 という理屈にならないか。

   民によって選出(選挙)された『代議員」がもし暴走するようなことがあれば、

   主権者たる民の手によって制御される・・・・。

   民主主義の生成・発展過程で、(主義は常に発展過程にあるが・・・)

   未だ未成熟な創世記、 二院制は老獪な知恵者によって生み出された

   優れもの というのが 私なりの理解。

   一方、『参議院」は、あたかも 最近流行りの『第三者委員会」のようなもの、

   という今日的な説がある。

   自浄能力の欠如した、組織、団体に対し、外部の知識、見識、経験等を

   生かして・・設置。 というアレである。

   でもこの『第三者委員会」、歯切れのいい大岡裁き、といった成果には

   あまりお目にかかることがない。

   どうやら『設置」することに意味があるらしく、それなりのメンバーを揃えて

   設置に漕ぎ付ければ、すなわち形が出来上がれば、目的の8~9割は

   達成というものらしい。

   そう言われれば、『参議院」 当てはまるところ多々である。 

   

   さて、この『参議院」 だからといってすぐ無くすというわけにも

   いかないらしい。

   誰かが、面白い「たとえ」を言っていた。

       『参議院は、あたかも 浅草・雷門の大提灯みたいなもの

        実用面では、なんら役にもたたないが、ここまでくると

        無くすなんていったら、 それこそ猛反対の嵐!」

   

    なんだか意の定まらない記述になったが

    これも 猛暑のせい ということにさせて頂こう。

          

外野から眺める

        物事の掌握は、できるだけその対象に近づき、あるいは内部に

        立ち入り、その個々を詳細に観察することが、王道ともいえるが、

        政治・経済分野においては、時としてあえて、その対象から距離を

        置き、いわゆる外野から眺めるように全体を捉えることによって、

        かえってその流れ、動きが解り、本質が見えてくる事がある。

        政治の世界に、「職業的」にどっぷりと浸かり、特定の組織のなかで、

        思考・実践することも、それはそれで否定するべきものではないが、

        それだけで、現実の社会が動き、形成されているものではない。

        案外、遠巻きに位置する「無党派層」のなかにも、真髄を突く警鐘が

        潜んでいることを軽視してはならない。

    イタリア在住の女性著述家といえば、もうお解かりであろう。

    「ローマ人の物語」の作者である。

    国内における、ああでもない、こうでもないの「チマチマ」した論争、

    足の引っ張りあい、を見ることに飽きると、氏のエッセーなどを拾い読み

    することが、頃合の清涼剤となる。

    「外から見ていると日本は・・・」という一寸皮肉の利いた警句に、

    「ガッテン」させられる事が多い。

    その全てを是とするわけではないが、歯切れのいい明解さがあり、

    立ち止まる風に、考えさせられることが多い。

    特に、「都議選」や今回の「参院選」など政治の季節にはお誂え向きである。

    ヨーロッパ、中東などの歴史(政争)を、精通・実感している人にとっては、

    日本の政治論争など、「こどものケンカ」位にしか見えないらしい。

    確かに、有難いことに、「負けたからといって、命まで奪われる事のない、

    精々 「失職」する程度の平和な国」である。

    政治とは少し離れるが、次のような記述もある。

       「 フェンミニストを 職業 にしている同姓を私は信用しない。

         女の独立が達成しようものなら、なによりも先に

         彼女たちが「失業」するからで、 シンポジウムあたりで

         この種の女達の話を聞いていると、彼女たちは、

         本当に女の独立を望んでいるのだろうかと 疑ってしまうのである」

    異論もあろうが、この「フェンミニスト」を 様々な評論家、たとえば

    「軍事評論家」 や各種運動家、 あるいは 「政治家」と置き換えても

    「ギクリ」とする人が多いのではないだろうか。

    「職業」つながりで話を拡げると、

    「この国をなんとかしたい・もっとよくしたい」 と 純粋な 「志」で、

    政治の世界に立ち向かう人が大半ではあっても、あまりにも大きな

    現実の壁(選挙)で、挫折(落選)を味わうと、いつしか「選挙に勝つ」

    ことが最大の「行動原理」となり、当選後も 当初の「志」との葛藤に

    思い悩む・・・というのが現実にある。

    その「症状」の処方箋の1つが、「外野から眺めてみる」という事ではないか。

    特定の組織、政党、支持者、グループに、囲まれただけの、「日常」では

    個々の「若き日の志」も,色褪せてくるというものである。

    今、「無党派層」の人達が、何を感じ、考え、何を求めているか、

    じっくりと耳を傾けることである。

    そこから また 政治が始まる。

    今回の「参院選」で、、もし 「職業」(求職・収入源)としての「立候補(者)」

    がいたとすれば・・・ いかにも哀しい。

    参院選公示日の感想である。

    

    

         

 

 

蓮の見頃

   先週は、義兄の葬儀で小田原に行っていた、 81歳であった。

   親を葬ることに一巡の我々にとって、少しずつ我々の世代にその番が

   近づいてきているということなのであろうか。

   葬儀は「家族葬」で執り行われた。

   思い興せば、我々の世代は、「量的拡大」 「拡大成長」を 随一の旗印にして

   生きてきたように思う。

   今、社会は、多様な価値観を夫々が認め合い、夫々が望む「普通」の、「本当」の

   姿を追い求める時代に変化しつつある。

   そうしたなかでの「家族葬」の浸透、ということなのであろう。

   義兄の葬儀も、従来の 「盛大」とか「派手」とかの価値意識を一切排除した

   遺族のこころのこもった、静謐で立派な葬儀であった。

   小生もかく願いたい・・・と思ったことであった。

   さて、話変わって・・・・。

   知る人ぞ知る。

   「大賀はす(蓮)」は、弥生時代以前の世界最古の花が復活、ということで

   有名だが、毎年 蓮の季節になると、「大賀一郎博士」の銅像もある、

   「府中・ 郷土の森公園」 の修景池が賑う。

   今年もその蓮が見頃ということで・・・・・。

   6月30日  府中方面への サイクリングコース。

         多摩川 サイクリングロード  (生憎、富士山は雲のなか)

         大国魂神社

     そして・・・ 「郷土の森公園」へ、 蓮の写真を数葉。

     淡白なれど、「美意識」に触れた半日であった。

Dsc00049

Dsc00046

   

   

« 2013年6月 | トップページ | 2013年8月 »