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2014年8月

連想ゲーム

   「カジノ」の次は「ロト」の話でも如何。

   と言っても、ほんの幕間話である。

   「ロト」は、「数字選択式宝くじ」と言うらしい。

   まだ、買ったことはない。

   したがって、その内容について精通している

   わけでもない。  

   実は、「ロト」と言っても宝くじの方ではないのである。

   と、言えば・・・・。

   ユダヤの歴史に明るい人(小生はじめ大概の日本人は

   苦手な分野だが) は、もしかして・・・と連想されるだろう。

   そう、アブラハム(ユダヤ人の祖)の甥、「ロト」である。

   「ロト」は、「ソドムとゴモラ」に登場する人物なので、

   あるいは日本人にも馴染みかも知れない。 

   さて、ここで旧約聖書の講釈をするわけではない。

   (元々出来ない!)

   ロトに纏わるほんの1つのエピソードを取り上げるだけで 

   ある。

   アブラハムが、神の啓示(私の命じる土地に行け)により

   一族でウルの町から長い放浪の旅が始まる。

   カナンの地で、長年連れ添ったロト(一族)と別れる。

   一族全体が共に暮らせるだけの肥沃な土地でなかった

   ため、一族の間で争いが起こったためである。

   その時の別れを、「創世記」では次のように記している。   

     アブラハムの言葉として

      「わたしたちは親類どうしだ。

       ふたりの間はもちろん、お互いの羊飼いの

       間でも、争いはやめよう。

       お前(ロト)の前にはいくらでも土地があるのだから

       ここで別れよう。

       お前が右に行くのなら  私は左に行こう

       お前が左に行くのなら  私は右に行こう

         (ロトよ 好きな方を 選べ)        」

    なんだか 無理やりこじつけたような・・・

    「ロト」の話である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

暗黙の信頼

   いつの世にも悪人という輩がいるものである。 が、 

   総じて、この日本、「暗黙の信頼」が根付いている社会

   ではないだろうか。

   今も、家に鍵なぞ掛けたことがないという地域があると聞く。

   まあこれは特別な例だが、例えば、街中に自販機を設置

   しておけるのは日本だけということはよく聞く。

   廻りの人達に対する気遣いも国民性の1つと言えそうである。

   ところで・・・

   昨今その美点であるお互いの信頼に影が差すような

   いやな出来事がやたら目につくのはどうしてだろうか。

   例えば、ある日の新聞から拾ってみても、

   次のような記事がすぐ浮かび上がってくる。

    1. 広島の土砂災害、被災地に警官を装う偽物の

       空き巣被害が発生。

       多くのボランティアが支援活動の裏側でのこの

       悪事。暗澹としてしまう。

       特に災害時もっとも「信頼」してその指示に従う

       警官や消防関係に装うというこの劣悪さ。

    2. 現役の病院医師からの新聞投書より

       救急患者(救急車搬送)の中に、明らかにタクシー

       代わりに救急車を利用している人が目に余る事態。

       ーーーこの現実!

    3. 地方議員の目に余る程度の低さの数々。

   これらは、世の中の全体からみれば、ほんの一握りの

   事柄かもしれないが、

   これら蟻の一穴から、世の中全体に蔓延していく

   「不信感」が怖い。

     警察官(あるいは善意の人達)も信じられない

     社会。

     救急車の例も、これで本当に急を要する患者への

     影響。救急車の有料検討化。

     地方議員の問題は、政治不信に直結。 

     特に若い世代の政治離れ加速、厭世観懸念。

   いわゆる「三面記事」のなかにも、放置しておくと

   世の中に毒をまき散らす有害物が潜んでいる。

   失くしたり、希薄になったりして、はじめてその貴重さに

   気付くものは 「空気」 「水」 そして 「信頼」である。

 

 

 

 

 

 

 

IR(アイアール)

   IRと言えば、企業の「投資家向けの広報」の事だと

   思っていたが、昨今は別の意味合いで使われるのが

   主流らしい。

   即ち、「統合型リゾート」である。

   その中身は、総合観光集客施設で、ホテルや、各種娯楽、

   スポーツ等の施設を兼ね備えた文字通りの複合大型施設の

   ことである。

   そのなかに「カジノ」が含まれていることから、一躍様々な

   意味合いで注目されている。

   すでに具体的な動きとして、この秋の臨時国会で、

   「統合型リゾート(IR)推進法案」(通称カジノ法案)が

   成立する公算大とのことである。

   いつものことながら、我々日本人はぎりぎりにならないと

   世論が盛り上がらない特性があるようだ。

   ようやくにして「本当に我が国にカジノは必要か」という

   議論があちこちで目に付くようになった。

   賛否両論の代表的な論旨は、

    賛成派は、 観光立国、海外からの集客施設

            経済成長(活力)効果等。

    反対派は、 カジノのギャンブル性、それがもたらす  

            影響、デメリット。日本の風土に合わない、

   といったところであろう。

   さて、私の考えはといえば、

   ギャンブルはいけません、と優等生的な事を言うつもりは

   ない。

   それよりも、極めて個人的、低次元な話として・・・。

    ゼニ儲けも大いに結構だが、「カジノ」が無くても

    日常の生活に全くなんの支障もない!という

    単純な、いかにも単純な個人的見解だけである。

    他に必要なものが沢山アリマッセ・・というわけである。

   元々IR自体、海外からの集客を狙ったものであり、

   「国民のための施設」でないことは解るが、

   それにしても、というかそれだからこそ

   今、カジノですか・・・というのが国民多くの本音では

   ないだろうか。

   他面、蜜の味を感じ取る世界が存在する。

   早くも株式市場では、「カジノ銘柄」が囁かれている。

   施設候補のトップが首相とゴルフ。(あくまでうわさだが)

   という生臭い話もちらほら聞こえてくる。

   勿論、現役を離れたご隠居には関係のない遠い世界の

   ことではあるけれど・・・・。

 

 

 

 

 

 

自衛権

   簡単に言えば…こういう事。 と

   あるジャーナリストが述べている。

   それが正しいかどうかは、意見の分かれるところだが、

   とりあえず参考までに以下取り上げてみる。

   法的には「集団的自衛権」と言う。

   「自衛権」と言うから、その方面に暗い一般市民は 

   アレコレと深く考え過ぎてしまう。

   この「自衛権」 思い切って「集団的自衛隊」と言い換えると

   より単純、明快にその本質が見えてくる。

   「個別的自衛隊」を、より強固な存在として「集団的自衛隊」

   にグレードアップしておく。

   要するにどういう事かと言うと、一旦事ある場合、

   同盟国「力を合わせて」対応、対処する(できる)

   「自衛隊」の形成である。

   こうしておくことで、防衛戦力がより強固なものとなり、

   そのことが「抑止力」UPに繋がり、よって国民の

   平和と生活の安全に貢献・・・というストーリーである。

   さらに、将来的には、この「集団的自衛隊」をより実態に

   相応しく「集団的国防軍」に改める。

   これによって本件、一応のシナリオが完結する。

   簡単に言えば…こういう事です。と言って

   そのジャーナリストの解説は一応終わるのだが・・・・。

   さて、この話をどう考えればいいのでしょうか。

   あとは・・・我々に残された大きな宿題である。

 

 

 

 

 

 

視点転々

   東京都のある市で、ニセ電話詐欺対策のために、市在住で

   60歳以上のみで暮らす1万1千世帯の個人情報を、

   所管の警察に提供していた。

   個人情報の中身は、住所、氏名、生年月日、性別、の

   4項目である。

   その意図は分らないでもないが、個人情報の取り扱いとして

   いかにも軽率。

   市民の個人情報が、当該市政の「裁量」で他に流される

   現実に今少し注視しておく必要がありそうである。

   本ケースの場合、警察に知られても何ら「やましい!」こと

   など無いにしても、流石に市民からの苦情が多く寄せられ、

   市も回収したとのことである。

   市は、「提供するリストを改めて検討する」としている。

   さて、個人情報の取り扱いに加えて、このニュースから

   もう1つの事柄について考えさせられた、

   ニセ電話詐欺対策についてである。

   周知の通り、相変わらず詐欺被害は収まらない。

   このため、今や警察を中心に、メディアを通して注意喚起に

   躍起の様相である。

   そのこと自体、重要な対応であり、関係者の努力に

   敬意を表することにやぶさかではない。

   さわさりながら・・・・。

   今1つ、この対策の考え方に釈然としないところがある。

   以下は外野席からの独断である。

   結論的にいえば、

    「加害者を抑え込まない限り、犯罪は減少しない」という

    簡単にして極く当たり前の事。

    しかるに・・・

    昨今の詐欺対策は、簡単に言えば、如何に被害者を

    無くすかにエネルギーが偏重し過ぎ。

    注意喚起も勿論大切だが、たとえば、市民からの情報

    提供運動とか、検挙率、犯人はどういう連中か等々の

    いわゆる「加害者」サイドにシフトした対策が肝要。

    今の新聞の詐欺記事、95%が被害者の事(情報)  

    ばかりではないか・・・・。

    言うは易しとはわかっているが、加害者サイドからみて

    この犯罪はペイしないと思わせるような状況に

    追い込まない限り、詐欺被害はなかなか無くならない

    のではないか。

    ポイントは、被害者ではなく、加害者対応。

    余計な事かもしれないが、前述の市民個人情報、

    果たして警察はこの1万1千ものデータをどう活用する

    つもりだったのか、他人事ながら少し気になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

木陰で午睡

   この暑さの最中,熱っぽい直言(?)は脇に置き、

   午睡の寝言のような話を思いつくままに・・・・。

     (お盆の帰省渋滞)

   渋滞30Kとか50Kとかをニュースで聞くと、

   よくもまあと、やや皮肉な目線で懐疑的に見ていたが、

   ふるさとで待つ父や母の心情、孫たちとの限られた交流、

   日本中で数多くの貴重な思い出…。等々がそのバック

   グランドにあると聞かされて少し見方が変わった。

   どんなに時代が変わろうと、

   日本人って(いい意味で)なんだか切ないね。

    (戦後69年)

   今、を生きている人達にとっては、いつの時代も

   常に「戦後」である。

   後世の人達だけが、その時の時代を 「戦前」という。

                   - ブラック冗句 -

    (総合力主義)

   夏の高校野球真っ盛りである。

   各チームの実力基準として「総合力」というモノサシが

   よく使われる。

   確かに、レベル査定での「総合力」は極めて真っ当で

   それなりに説得力もある。

   何よりも、我々は小さい頃から「総合力評価」で育って

   きているので、身に沁み込んでいるモノサシでもある。

   ただ、この「総合力」って果たして何か・・・と

   改めて考えると結構悩ましい。

   例えば、前途の高校野球、優勝校と総合力の相関は

   いかほどなどであろうか。

   案外、「投手力」の相関の方が強いということも考えられる。

   話は変わるが、

   ある大学教授が、入試で、たとえば英語と社会の点数を

   合計する、(結果としてそれらの合計点の順位で合否を

   決める) ということはどういう意味があるのだろうか、と

   問題提起されていた。

   (否定ではなく考えてみると面白いというニュアンス)

   現実論としても、それなりの意味があるのであろうが、

   改めて言われるとさて、と考えさせられるのである。

     (教育)

   教育問題など、およそ門外漢、対極に位置するものが

   いい加減な事を言うつもりはない。

   したがって以下はあくまで他人様のご意見。

   過日、元東大総長の言で、成程と興味深く受け止めた

   ことがあり、それを私なりに要約して記させて頂く。

     一般社会では誰が聞いても正しいということがある。

     例えば、人の真似はいけない、自分で考えることが

     大事といったようなこと。

     これは一見正しそうな考えである。

     しかし、実は

     19世紀の終わりから20世紀にかけて、

     自分ひとりで考えるのではなくて、他人と共に考える場

     として学校や大学が、近代の国民国家としてふさわしい

     組織として整備された。

     社会とは、他人とともに考え、他人とともに行動する

     場にほかならず、それを準備する場として学校がある。

     そこでは、自分ひとりで考えたことなど、ろくなものでは

     ないということをまず教えなければならない。

     自分一人で考えた事の大半は、すでに歴史のなかで

     人類が考えてきたこと。

     それを教えることが・・・・(以下略)

   学校、並びにその場での教育の本質を明快に述べている。

   昨今の個性重視、自主性尊重傾向に対する1つの警鐘

   として受け止めたのだが果たして如何。

 

 

 

 

 

反骨の人

   1909年(明治42年)生まれというから、丁度我々の

   親父の世代である。

   その時代を背景とした人達の、ある典型ともいえる人生の

   足跡。その一端を、ある1冊の本によって伺い知るところと

   なった。

   松本清張の「半生の記」である。

   今更ではあるが、松本清張の創作活動は、推理小説、

   時代小説、社会小説、古代史 、ノンフィクション、評伝等々

   多岐に亘り、夫々の分野で著名な作品を残している。

   脅威の創作エネルギーといえるが、さらに驚くべきことは、

   その出発点が40代も半ばからという点であろう。

   周知の通り、「ある小倉日記伝」で芥川賞を受賞したのは、

   1953年、松本清張44歳の時である。

   「半生の記」は、それら創作活動に至る前、いわゆる

   出生から世(文壇)に出るまでの苦難の半生を赤裸々に

   綴ったものである。

   定職のない父親と、文盲の母、の一人っ子として、

   可愛がられて育ったが、終始貧困との戦いがついて回り、

   清張も小学校を出て働くことになる。

   以来、学生生活とか、青春とかいうものとは縁のない

   本人曰くの「灰色の生活」が持続する。

   その間、数年にわたる兵役生活も体験している。

   と、いかにも憂鬱な本のイメージになるが、この「半生の記」

   の救いは、この境遇から、いかに抜け出すかの、苦悩、

   工夫、努力 の物語でもある、という点であろう。

   ある同業作家が、数ある著名な作品のなかで、最も

   印象に残る作品の1冊として、「半生の記」を挙げていたのが

   なんだかわかるような気もする。

   数多くの作品のなかに、この「半生の記」のエッセンスが

   無意識に凍み込んでいるとでもいったらいいのであろうか。

   この「半生の記」を読み終えた時、ふと「反骨」という一言が

   頭に浮かんだ。

 

 

 

 

 

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