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2014年12月

大晦日雑感

   今年も大晦日を迎える事ができた。

   あっという間の1年でもあった。

   大晦日といっても、若い頃に比べると、その感慨に

   相当の差があるように感じる。

   大袈裟に言えば、師走から新年に掛けての風情が

   変容してきているということなのか。

   昭和と平成の世の違いでもある。

   それにしても、歳とともに、月日の過ぎるこの時間の

   速さはどうだろうか。

   しかもその時間の中身まで、若い頃とは異なることに

   気付かされるのである。

   同じ時間、たとえば10年間で、

   1歳の子供は、立ち上がり、歩み、そして走る廻る。

   言葉を覚え、話し、聴き、書くことも自在になる。

   そして何よりも、その間に身に付ける知識、智慧の

   総量は驚異的ですらある。

   これに対し、例えば60歳の人が70歳になる

   同じ10年間の成長振りは如何ほどであろうか・・・・。

   60の時に出来ていたことができなくなる、覚えて

   いたことをすっかり忘れている・・・というのが

   大概の現実ではないか。 

   命あるものの動かし難い姿、成長から退歩への

   過程である。

   と、なんだか大晦日の感慨にしては湿っぽい話に

   なったが、実はそうではない。

   だからこそ、1年1年、1日1日が、貴重にして重要。

   こころを萎えさせるか、あるいはある種の気概を

   もって生きるか・・・ 歳を経るに従い、大きな分かれ目、

   というのが、新たな年を迎えるにあたっての

   ご隠居なりの感慨である。

         老驥伏櫪  (老驥はうまやに伏すとも)

         志在千里  (志は千里に在り)

         烈士暮年  (烈士は暮年にも)

         壮心不己  (壮心やまず)

                      -  三国志 曹操 -

 

 

 

 

 

 

ふるさと

   「ふるさと」と言えば、誰もがすでにその意味するところの

   イメージを思い浮かべるに違いない。

   が、念のため手許の広辞苑で見てみると

      1. 古く物事のあった土地 古跡

      2. ふるびて荒れた里

      3. 自分が生まれた土地、故郷

      4. かって住んでいた土地

   とある。

   まあ、一般的には3の 「故郷」がぴったりと収まる。

   ところで、一寸面白い説を説く人がいた。

   A氏曰く、

   ふるさとは、文字通り生まれ育った場、であるが、

   人が生まれ,生き、そして死んで往く。その旅立つ先

   (あの世)もまたふるさとである。

   人は皆ふるさとより生まれ、ふるさとに還る存在。

   と言うのである。

   これもまた1つの説、という程度に聞き置いたわけだが、

   あることをきっかけに「ふるさと(あの世)に還る存在」も

   悪くないな、と感じたのである。

     - - - -

   「ふるさと」と言えば、抒情歌(唱歌)の「ふるさと」が

   定番だが、このふるさと(歌詞)を頭の中で、「あの世」の

   イメージに置き換えて読んでみる。

   少しまた違った感慨が過る。

   ふるさとに還る・・・も悪くないと思ったきっかけである。

          如何にいます父母

          恙なしや友がき

          雨に風につけても

          思い出でる 故郷

          志を果たして

          いつの日にか 還らん

          山は青き故郷

          水は清き故郷。

                        合掌。

 

 

冬(ふゆ)の話

   本格的な冬の到来だが、以下は時候の冬の話ではない。

      - - -

   貴方は冬を 「ひらがな」で書けますか、と問えば

   大概怒りをかうことになる。

   「ふゆ」と書くのは、今どき幼児でも知っている。

   小さい頃に刷り込まれているひらがなを、いまさらじっくりと

   眺めたり、検証したりすることは、それこそ酔狂と、

   一笑の沙汰うけ合いである。

   さわさりながら・・・

   幼児でもすなる「ひらがな」をしてみんとて・・・たまには

   じっくりと眺め直すのも暇人の暇つぶし。

   さて、この冬のひらがな「ふゆ」についてである。

   ある時、「ふゆ」という字を何気に見ていて、

   なんとも優美で、落ち着きのある「姿」かと改めて

   気付かされたのである。

   見れば見るほど、計算され尽したかのような

   バランス美ではないか。

   勿論、美の感受性は一概ではなく、これをなんとも

   思われない御仁もおられるだろうが、それは人夫々。

   日頃何気に使っている「ひらがな」も、その完成過程では

   様々な「物語」があったに違いない。

   昨今の「世界遺産」騒ぎにはあまり関心のある方では

   ないが、 「ひらがな」こそ、我が国の誇れる文化遺産

   ではないかと、思ったりするのだが、果たして如何。

      - - -

   ついでながら、どうでもいいような豆話。

      ひらがな1字で、職業(看板)を表す字がある。

        「ゆ」・・・ 銭湯

        その昔には

        「ふ」 ・・・ 麩屋

        「う」 ・・・ 鰻屋

   「ひらがな」も粗末に扱うと バチがあたりますぜ。

         

 

 

 

選挙総括

    (前口上)

       現在,時刻は 12月14日 18時

       まだ選挙結果は出ていない。

       このタイミングだからこその「総括」の妙味。

       なんら党派に属さない者の強み(遊びこころ)である。

       さて、何かと面白い情報は豊富、つい長くなって

       しまいそうだが、ご隠居の長話なんか聞きたくも

       ないであろう。

       そこでほんの一言、急所の一突き。

       忘れた頃にじんわり利いてくるからご用心。

           -----

   今回の選挙、総理曰く「アベノミクス選挙」との由であった。

   「アベノミクス選挙」とは、要するに「経済政策」の是非が

   争点ということなのであろう。

   今日の経済政策は、グローバル社会各国共通の問題と

   して、「トリクルダウン理論」をどう考えるか、その是非論争

   に集約できるのではないか。

   要するに、アベノミクスを是とするのは、この理論が正しい

   とするものであり、反対の立場はこれを否とする、という

   ことではないか、というのが私なりの理解である。

   ここで簡単に「トリクルダウン理論」を要約しておくと、

   富めるものが富めば、低所得者層にもその富が滴り

   落ちる。という経済理論である。

   経済全体(パイ)を大きくすることで、その効果が次第に

   低所得者にも広がる、まずパイを大きくしないことには

   始まらない・・・という考え方である。

   これに対し、この理論を疑問視する立場は、

   パイが大きくなっても、配分の改善が伴わなければ

   一部の恩恵を受ける富裕層が潤うだけで、低所得者

   までその効果が浸透せず、かえって経済格差を助長

   する・・・という考え方である。

     さて、あなたはどう考えますか?

     というのが本来今回選挙の眼目であった・・・筈だが

     果たして現実はどうだったのだろうか。

        -----

   余計な事を1つ挟むと、

   この理論闘争の意味について、誰にも分るように

   取り上げ、報じたマスコミは如何ほどあっただろうか。

   なんだかほとんどのマスコミ(新聞)が、あたかも

   競馬の予想紙(といっても買ったことはないが)のように

   各紙とも選挙予想にエネルギーの大半をつぎ込んで

   いるように私には見えたのだけれど、それって

   本当に報道の王道なの?

       -----

   それよりも一寸気になった事象を1つだけ。

   いいのか悪いのか、この時期に{OECD}が「トリクルダウン

   理論」に一定の見解を公表したことについてである。

   その意とするところは、

   経済全体のパイを大きくすれば、低所得者層への配分も

   改善する・・筈だが 従来とも各国の実態経済はそうなって

   いない、という分析結果である。

   OECDの見解をそのまま鵜呑みにすることもないが、

   不思議なことに、この分析結果を各国メディアは大きく

   取り上げているのに、我が国では一部を除いて、

   ほとんど報じていない。

   偶々選挙期間中の微妙な時期で、各社自重したのか

   それとも  言論統制? まさか!

   あるいは 権力の顔色を覗う弱腰のマスコミ・・ まさか!

   と、色々考えさせられてしまった。

   現時点における 小心ご隠居の「総括」である。

 

 

 

 

 

年(歳)の瀬に

        青春とは 人生のある時期を言うのではなく

        心の様相を言う。・・・・

        年を重ねただけでは  人は老いない

        理想を失う時に 初めて老いがくる。 ・・・・。

                    - サミエル ウルマン -

           - - - -

   ウルマンの「青春」の詩は、我が国でも、特に我々より

   1世代上の人達の間で、広く愛唱されているようだ。

   思うに、この世代の人達の青春は、戦時体制のなかで

   黒く塗り潰されていたことと深く結びついているのでは

   ないだろうか。

   それに比べ、我々以降の世代は、はるかに恵まれ、

   ゆるくて、ぬるい時代を過ごしてきた。

   「青春」の想いは、時々の時代背景を内包して、

   こころの奥底に沈殿しているのだろう。

   勿論、青春の記憶は、人夫々である。

   わが身を振り返ってみれば、 人様に語れるような

   「青春ストーリー」なんて1つとしてない。

   まあそれもそれの人生・・・で、この歳まで生きてこられた。

        - - - - -

   ウルマンの「青春」の詩は、あるべき理想の姿として

   共感できるし、この詩の如き姿勢で、いつまでも

   イキイキと過ごされている人達には、畏敬の念を

   持つが、それはそれとして、

   もう少し、「いい加減」でもいいのではないか・・と

   いう想いも一方である。

   (いい加減も、これはこれで、善い加・減 の按配は

    結構難しいのである)

   最近想うことだが・・・

   古い詞に 青春・朱夏・白秋・玄冬(人生の四季)がある。

   平均寿命が伸びた今日、 我々の世代は丁度「白秋」が

   頃合いであろう。

   で、いつまでも「青春」にしがみついているのも無粋。

   歳は歳なりに、「白秋」をじっくり味わうこころの

   落ち着きこそ丁度「いい加減」。

   と、こんなことを想い巡らすのも年(歳)の瀬の所為

   なのであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

二つの顔

     人の顔にも 未熟な顔と 成熟した顔があるようだ。

              - - - - -

   高倉健、菅原文太という一時代を築いた男優が

   相次いで亡くなった。

   芸能界に詳しくもなく、この二人の若き日の作品、

   例えば「網走番外地」や「トラック野郎」シリーズなど

   題名こそ馴染みだが、それこそ1本も見ていないわが身が

   あれこれ語る資格もないが、1つだけ想うことを書いて

   おきたい。

            - - - - -

   「映画」の本筋とは少し離れるが、

   この二人の共通点というか、興味深い点は、

   若い頃の顔立ちよりも、歳を経てからの顔の方が、

   一段と熟成し、魅力的で 美しいということである。

   美しいといっても、勿論 昨今言われるところの

   「イケメン」的なそれとは全く次元を異にするものである。

   若い頃「イケメン」をウリに騒がれたタレントが、40を

   過ぎる頃から、見るも無残な面相に成り果てることを

   時折垣間見るが、その多くは一時的な栄華の媚薬に酔い

   頭の中や心に栄養を与えなかった所為ではないかと

   思われるのである。

   それに比べ、この二人は、少し其処等へんのタレントとは

   違うのではないか、二人とも映画人としてスター街道を

   歩いてきたにもかかわらず・・・である。

   二人の歳を経てからの顔相を見るとそう感じるのである。

   勿論、私生活など知る由もないし、二人の足跡など

   詳しく知るわけでもないが、顔を見ていてなんとなく

   そう思うのである。

   恐らく生への清冽な姿勢が顔に滲み出る・・そう思いたい。

   「演じる」ことが仕事の彼ら俳優も、結局「生身の人間」が

   俳優生命に大きく影響するのではないだろうか。

        - - - - -

   美しくなくてもいい、せめて穏やかな面相の老人に

   なりたいものですネ。 ご同輩!

 

 

 

 

 

 

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