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2015年2月

改革の一歩

   しつこいようだが、又々「政治ポスター」から連想の話。

   偉そうな事を言うつもりはないが、世の中、いつまで

   このような事を続けているのか・・・と思うことがある。

      - - -

   タイムリーな話題でもないが、「ポスター」繋がりで、「選挙」を

   取り上げてみても、今もなお、選挙となれば街中に設置される

   ポスター看板とこれもまた街中を駆け回る選挙カーが、

   選挙活動の定番。

   一寸立ち止まって考えると、今もなおこれらが「最善」の方法

   なの?と不思議に思うのである。

   選挙そのものの仕組みが、専ら候補者のプレゼンの在り方や

   規制に比重が置かれ、肝心の有権者の選択ツールが手薄と

   いう感が否めないのである。

   候補者の政治家としての資質、能力、力量を推し量る材料

   として、一部公約一覧が配布されるとしても、未だにポスター

   や選挙カーが主流というのは、如何なものか。

      - - -

   我々世代がまだ幼かった日々の頃・・・、

   その頃、家々には、テレビも電話すらなかった。

   その時代の「選挙」なら、名前を大きく掲げたポスターや

   選挙カーで街中を駆け回り、名前を連呼することが「最善」

   だったのであろう。

   あれから半世紀以上も経った今日、路上で電話のやり取りや

   情報が入手できる時代である。

   なんだか不思議というよりも、時代に即応した現代風の

   選挙の在り方があってもいいのではと思うのである。

      - - -

   現実可能な具体案は、「有識者会議」あたりで

   検討してもらうとして・・・、

   ご隠居らしく、「遊び心」で珍アィデアを1つ2つ・・・。

      1日中選挙カーに乗って街中を駆け回る・・・

      そんな無駄な事はいい加減に止めましょうよ。

      某氏曰く、政治家も医者や弁護士と同様、試験制度を

      導入したら・・・というのは流石に過酷。

      でも、「政治資金規正法」について、一寸テストして

      みたい気がしますね。 まあそれはジョークとして、

      一部上級公務員も課されているというが、選挙期間中

      候補者の「集団討議(グループディスカッション)」という

      のはどうだろうか。

      毎日特定のテーマで各々論じ合ってもらう。

      この討論バトルを、地元のケーブルテレビかなんかで

      1日中放映する。

      面白い試みと思うのだけど・・・。

      選挙への関心が高まり、投票率も上がるのでは。

      思い付きの2つ目。

      政党で作成した原稿を読み上げるような一方通行の

      演説・・・、

      そんな無駄なことはいい加減に止めましょうよ。

      それよりも有権者が本当に知りたいことを答える機会、

      たとえば全候補者スタジオで、有権者からの質問に

      答える「時間無制限質問コーナー」を設けるというのは

      どうだろうか。

      一方的に話を聞くのではなく、双方の話し合いの方が

      人物査定には有効なのは言うまでもない。

      曖昧な解答には徹底的に追及されることになる。

      つい本音がポロリということも有りうるのでは・・・。

          - - -

         より真っ当な政治の第一歩は

         より真っ当な政治家を選ぶこと。

         そのためには

         より真っ当な政治家を選べるような

         選挙の仕組みを常に改革していくこと。

         それがまた政治家を鍛えることにもなる。

         改革の第1歩である。

              (偶には真面目なことも言います)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

光太郎の詩

        あれが 安達太良山

        あの光るのが 阿武隈川  

           - - -

   これは、周知の通り 高村光太郎 「樹下の二人」の

   冒頭の2行である。

   極めて解り易く、シンプルで素直そのものの表現。

   だが、たったこの2行で、

   目の前に拡がる雄大な風景が浮かび上がる。

   さらに、作者の立ち位置まで想像させてしまう不思議な

   力がある。

   ≪あれが≫ から≪あの≫ に繋がる絶妙のリズム。

   方向と距離感すら控えめに教えてくれる。

   そしてなお、これを読む人に、1度はこの地を訪れて

   みたいと思わせるような引力さえ感じさせる。

   たった2行の力である。

      - - -

   省みて我々の全人生は、如何に饒舌に溢れているかと、

   改めて考えさせられる。

   過剰なまでの装飾や言葉によって自らを誇示する・・・

   その欲望が、着膨れの人間を作り上げる。

   我々は、もしかしたらお互いが誇張した着膨れ社会を

   対象にあれこれ論じ合っているのではないか。

   本当に美しいものや、本当に大切なものは、

   案外シンプルで、素朴なところに存在しているのかも

   しれない。

      - - -

   一遍のそれも 冒頭のたった2行からも

   我々が失いつつあるものを教えてくれる。

          あれが 安達太良山

             あの光るのが  阿武隈川  ---。

 

 

 

 

 

 

我流の想い

   有難い事に、今のところ足腰も故障なく、歳の割に

   自由気侭、思いのままに出歩いている。

   身体的事情なら仕方ないが、折角の人生、「ひきこもり」は

   野暮と心得ている。

   時折、若者の「ひきこもり」を見聞きすることがあるが、

   それなりに事情を抱えているのだろうが、それこそ

   野暮の極み、「もったいない」ものだと同情を禁じ得ない。

   1つ配慮しておくべき点は、自ら求めてひとりが安らぐと

   いう人と、いわゆる「ひきこもり」とは別と考えておきたい。

   そこで、我流の「ひきこもり」論を一言。

   ひきこもりは論外、野暮ではあるが、人間、「ひき」や

   「ひく」ことを弁え、それを実行、体験しているひとは強い、

   それによって、「こもり」「こもる」事を体験することは

   同様に強い人間を作るのではないか・・・。

   「ひく」ことや「こもる」ことが出来ない、あるいはその

   経験不足のひとが、ややもすると「ひきこもり」に

   陥りやすいというなんだかパラドックスのような言い方

   だが、そんな気がするのである。

   ここで言う「ひく」とか「こもる」の意味合いは・・・、

   人間、群れのなかにいる方が安穏というところがある。

   自ら意思決定、決断する必要が少なく、適当に群れの

   流れに身を委ねという生き方に慣れると、自らの

   考え(意見)がなくてもなんとか過ごせるという世界である。

   ここで大切なことは、時にはそういう世界から意図的、

   意識的に身を「ひき」、群れから距離を置き、ひとりに

   成りきれるかどうかである。

   その結果として一時的にしろ「こもり」「こもる」ことを

   体験する。

   但し、群れと完全に断絶し、一匹オオカミになる必要は

   ない。

   一定の間合いを取る。その感覚を養うという事であろう。

   小さい頃、仲間から離れても、ひとりで夢中になって

   遊ぶものがある、その世界、体験である。

   意図的、意識的に群れから「ひき」・「こもる」体験の

   薄い人が、突然群れの方から拒絶されるようなことが

   生じればどういうことになるか・・・・・。

   「ひきこもり」の全ての要因とは言わないが、

   「ひき」と「こもり」が大切なキーワードとする所以である。

   これが私なりの1つの見解である。

      - - -

   さて、「ひきこもり」は、なにも若者だけのものではない。

   我々の世代でも耳にする話である。

   結局、それらも長年群れ(組織)にどっぷりとつかり、

   一定の群れのなかで、生活の大半を過ごしてきた人達が

   ある時点で群れから離されて生じるある種の症候群

   なのであろう。

   リタイア―後は特定の人達を除き、大抵は多かれ

   少なかれ社会との接点は小さくなる。

   ほとんどなくなるということもありうる。

   その場合でも、なんらか夢中になって時を過ごすことの

   できるひとは幸せである。

   さらには、折々にお互い受け入れられる仲間(群れ)が

   いることはなお幸せなことである。

   つまるところ、老後の価値は、そんな身近にあるものでは

   ないだろうか。 最近想うことでもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブルースカイ・東京

   10年、20年前の東京は、晴れの日もスモッグの所為

   なのか、薄ぼんやりした空気に覆われいるように感じた

   ものである。

   それがいつの間にか、このところの東京は、見違えるように

   すっきりとしたブルースカイの日が多くなった。

   普段は、当たり前のように、改めて意識することもないが

   ふと何気に見上げる青空に、こころ晴れやかな気分に

   させてくれることがある。

   東京もこの点では、いい方向に進んだものである。

        - - -

   あるデータによると、中国からの我が国留学生は、

   8~9万人程度とのことである。

   (因みに韓国は2万人弱)

   彼らが初めて日本に来てまず驚くことは、街の清潔さや

   思いのほかの日本人の親切さ、等々あるなかで、

   ダントツは「青い空」だそうである。

   多くの学生が、その美しさに、それまでの日本に対する

   イメージを一新するらしい。

   逆に推し量れば、如何に今、中国(北京)の空が、

   どういう状態にあるかが想像できるというものである。

   周知の通り、中国は経済大国への道を突っ走り、

   そのエネルギー消費量は、国際社会を震撼させる

   に至る勢いである。

   我が国も公害という過程を経たが、今日の青い空に

   日本人らしい節度を感じるわけである。

   他面、彼らの印象はプラス面だけではない。

   彼らが感じる7不思議の1つとして・・・、

   何故日本の学生は、折角難関を突破していい大学に

   入ったのにあまり勉強しないのか?

   というものである。

   全ての学生がそうだとは思わないが、痛いところを

   突かれたものである。

   確かに、我々の学生時代からして似たようなもの、

   「悪しき伝統?」なのか。

   中国では、過酷な競争社会のなかで、一部のエリート

   集団に入らない限り、将来的にも大きな格差がついて

   廻るという社会構造があり、学生たちの、他を押しのけて

   もという気概がそもそも違うという。

   最近、留学生のなかには、卒業後も中国に帰らず、

   日本企業に就職しキャリアを積みたいとする人も多い

   らしい。

   母国語に加え、英語、日本語を身に付けることから、

   日本企業サイドからの需要も高まり、ホワイトカラーと

   してしかるべきポストを占めつつある。

   唯、彼らは全般的に有能ではあるが、日本的な仕事を

   進めていく上での、いわゆる協調性、チームワークという

   点でネックがあり、双方が苦労し、悩むことが多い、とは

   ある人事担当者の話。

       - - -

   東京の青い空 からやや話が横道に逸れたが、

   青空には、自由気侭に浮遊する白雲がよく似合う。

   としておこう。

   それにしても、このブルースカイの下で、

   生活を共にする我々人間社会。

   くれぐれも 「暗雲立ち込める」ということの

   ないように願いたいものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

景観は語る(続き)

    念を押すまでもないが、私は「フォト・ジャーナリスト」でも

    なければ、ましてや「ポスターフェチ」でもない。

    ただの市井のご隠居である。

    偶々、少々遠出をする際に、ポケットに小型カメラを

    忍ばせて出歩くだけのことである。

    とある街で目にした「光景」が、私のアンテナに引っかかり

    私なりの視点で「チクリ」とやらかした矢先、偶然にも

    同じような場面に遭遇してしまったというわけである。

    ここは見逃す手はないものと、1枚写真を撮らせて頂いた。

    それが次の写真である。

      Dsc00356

    住人がおられるのか、空き家なのか定かではないが、

    家の構えは全く関係なく、あくまで乱雑に張られた

    ポスター類がこの写真の主役である。

    したがって、この家主には全く悪意のないこと、および

    閑静な住宅街の一角であることをお断りしておく。

      - - -

    さて、そのポスターだが、全て政治がらみのものである。

    夫々、許可を取って張っているのだろうが、それにしても

    なんとも異様な景観ではないか。

    これを張った関係者たちはこれを異様とは感じないので

    あろうか。

    それとも、道行く人たちに対し、効果絶大と思っている

    のだろうか。

    道行く人たちもこれを見て、何らかの政治的メッセージ

    を得ているのだろうか。

    このような街の景観を見せつけられると、

    果たして彼らに日本の、地域の将来デッサンを任して

    いいのだろうかとすら思ってしまう。

    美的感応度の鋭い?ご隠居には全く逆効果の

    ポスターであった。

    さて、諸兄におかれては如何なものであろうか。

 

 

 


 

景観は語る

     Dsc00354

    この1枚の写真は、名もないある通りに面したおよそ

    3~40Mはあるかとおもわれる長い白壁にびっしりと

    張り巡らされた各政党のポスターである。

    よく知った顔、党首たちのにっこり微笑んだ写真が

    ずらりと勢揃いの盛況振りである。

    此処は、政治に絡む由緒ある場所でもなければ、

    選挙期間中での期間限定の景観でもない。

    日常的になっているところが意味深い。

    この写真を見て、現実の政治模様のアレコレに

    思いを拡げてみるのも悪くない。と思いませんか。

        - - -

    このポスターの主たちは、この世をさらにもっと

    よくしたいとの気概を持ち、その信条、思想を

    実現化したいという意欲溢れる人たちばかりである、

    に違いない。・・・そう思いたい。

    そして、その思いをなんとかひとりでも多くの人達に

    訴え、解ってもらい、同意を得たい気持ちに溢れて

    いるに違いない、ことはよくわかる。

    そのためのツールとしてのポスター。

    手にとるように解っております。

    ところが・・・、

    ひとりひとりの熱き「各論」が集まって1つの塊「総論」

    になる過程で競争原理が働いてしまうのが世の常。

    忽ち他人の意見など聞く耳持たず、声高に自己主張

    を競う姿に変貌する。

    なんだか、この1枚、1枚は真摯なポスターが、

    大量に張り巡らされることによって作り上げられた

    この街の景観・・・・・。

    なんだか考えさせるところがありませんか・・・。

       - - -

    現実の政治の世界に目を移すと、なんがかこの

    街の景観のような世界が垣間見えます。

    政治家にとって最も重要な資質の1つは、

    「想像力」というのが私なりの「モノサシ」デス。

       - - -

       ご隠居だって、ただぼんやり、ふらふら散歩

       しているだけじゃありませんや。

       時には、街の景観に目を留め、世間の様相に

       思いをめぐらすことだってありま・・・・おや、

       急に雨なんぞ降ってきやがったぜ・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

一寸一言

   世の中には、思いもよらない分野にも、その道の専門家

   とか評論家とかがいるものである。

   それらの人達から、多くの未知なる知恵なり知識を得て

   いることがあるが、なかには、いい加減という輩が混じって

   いるのもこの世の一面。

   我々の眼力もそれなりに必要というわけである。

       - - -

   今回の「人質事件」を契機に、さらにメディアを通して多くの

   専門家から、中東地域の歴史から現状に至る情勢を

   学ぶこととなった。

   一面、それら専門家の解説なり見解は、各々の立ち位置

   から導き出された「1つの見解」であり、そのことを常に

   弁えて置く、ということは今までの学習効果の1つである。

   そのことは、政治、経済、社会等どの分野においても

   重要なことなのであろう。

   と、そんなことを思っていた矢先、ある新聞の投書が

   目に止まった。

   その内容は、 

      あるラジオ番組のコメンテーターが、

      連日マスコミに登場する中東の情勢に詳しい

      専門家という人がこれほど大勢いるのかと

      あきれていたが、同感だ。

   というものである。

   世の中には、同じように感じていた人、もいるものである。

   勿論、マスコミに登場している人が皆いい加減という

   のではない。

   中には、適格に状況を分析し解説してくれている

   人もいた。  ・・・・されど という程度の話である。

       - - -

   以前、今から10年以上も前の話である。

   北朝鮮問題で、連日その分野の専門家がマスコミに

   登場し、侃侃諤諤やっていた時期、ある「専門家」が

   北朝鮮は数年も経たないうちに、体制崩壊は不可避、

   と断言していた。

   当時は説得力ある見解でもあった。

   不可解さは依然として存在する国柄だが、

   現状、専門家といえども一寸先は不明の例証である。

   今も、北朝鮮がニュースになると、専門家として

   マスコミに登場されている。

   そういえば、富士山噴火を常に警鐘し続けている

   専門家がいる。

   いつの日にか噴火が起これば、 その専門家は

   マスコミの寵児となること間違いない。

   (但し、それまでご存命であれば)

      - - -

   1つの教訓

      専門家としてその存在感を認知させるためには

      それなりのスタンドプレーも必要なのであろう。

      それだけに、我々素人も、専門家の宣託を

      鵜呑みにしてはいけない。

      常にその眼力や感性を試されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時の流れ

   なんだが1月もあっという間に過ぎてしまった。

   例の「人質事件」一色という感でもあった。

   最初にこの衝撃的なニュース(写真)に接した時から、

   ある想像ストーリーが頭に浮かんだ。

   誤解を恐れずに言えば、結末の時点での総理談話まで

   想定できた。

   残念ながら、ほとんど想定した通りの結末になってしまった。

   ひとりの日本人として、人間として、人命尊重は言うまでも

   なく、なんとか無事で・・と願ったのは言うまでもない。

   ただ、中東地域の想像を絶する複雑な歴史的事情を

   踏まえると、国内での「…べき論」は通用しないであろう

   事がまず頭を過った。

   その上での、ある種の「想定」であった。

   一方、政府当局の対応も、現在の我が国の立ち位置から

   見て、原理原則に準じたというか、全く想定した通りの

   対応であった。

     (全力を尽くす・・・痛恨の極み…誠に遺憾 )

   勿論、「想定した通りであった」ということが本意ではなく、

   これで一件落着ということでもない。

     問題は、

      今回の事件を通して、「結果的に」 テロ集団との

      対峙国としてより鮮明な立場になったこと。

        (後方部隊から第一線への方向)

      政治は結果とはよく言われるが、これも「結果的に」

      今回の契機になってしまったとも考えられる、この

      タイミングでの総理の中東訪問とスピーチ内容、

      が果たしてどうだったかの点。

        (但し、この問題で国内が混乱すればテロ集団の

         思うツボということも考慮の要あり)

   2月に入り、梅の季節になっても、

   これらの問題は一件落着というわけにはいかない。

   今年は皮肉にも〈政局安定化の)「政治の年」に

   なるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

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