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2016年3月

日本人と野球

  年寄曰く 「オレ達の小さい頃は、学校から帰ると

  暗くなるまで外で遊んでいたものだ」 とはよく聞く話である。

  遊びの中心は、なんといっても野球であった。

  確かに、当時の子供たちは大概「野球少年」であり、

  上手いだけで皆から一目置かれ、幅を利かせていたもので

  ある。

  「野球」といっても、今どきの「リトルリーグ」のような

  洒落たものではなく、精々近くの「原っぱ(公園)」での

  「三角ベース」がいいところである。

  それでも、当時はそれはそれで、必死に取り組んでいた

  ことが懐かしく思い出されるものである。

  今もなお、プロ野球や高校野球の隆盛は、「自ら経験した

  ことがある」という圧倒的な数の多さによるところが

  大きいのではないだろうか。

    - - -

  戦前・戦中の世相を概観していて、ふと面白いことに

  目が止まった。

  昭和11年、あの二・二六事件が起こった同じ年に、

  日本のプロ野球が本格的に始まっている事実に

  ついてである。(ペナントレース・公式戦)

  因みに球団設立は次のようである。

  昭和9年  大日本東京野球俱楽部(現 読売ジャイアンツ)

     10年 大阪野球俱楽部    (現 阪神タイガース)

     11年 大日本野球連盟

          名古屋協会      (現 中日ドラゴンズ) 

                                   等々

  さらに、興味深い点は、戦争突入後もペナントレースが

  続けられ、敗戦色濃い昭和19年まで実施されている

  (流石に昭和20年は中止)事である。

    敵性英語を禁止し、ストライク、ボールを「よし」「だめ」と

  置き換えてまで、敵性スポーツである「ベースボール」を

  放棄しないこの執着心の強さは、ただものではない。

  手許にある資料によると、各年度の優勝チームは次の

  通りである。

     昭和11年   秋 巨人

        12年   春 巨人  秋 阪神

        13年   春 阪神  秋 巨人

        14年~18年  巨人

        19年   阪神

        20年   (中止)

        21年   近畿グレートリング

  驚愕すべきことは、 昭和20年8月15日から、3ヶ月後

  の11月23日に早くも東西対抗戦が行われており、

  翌21年からペナントレース再開という「不死鳥」振り。

  戦意高揚とかGHQの思惑とか、様々な事情がその時々に

  あったのだろうが、戦後の混乱を思い描く一方で、

  結果的にしろ、「野球」が如何に日本人のこころに

  深く沁み込んだかを想像するのである。

  これもまた、歴史を紐解く1つの面白みなのであろう。

  平成28年3月25日 開幕の日。

  今年も様々なドラマが生まれることであろう。

 

 

 

 

 

 

 

歴史の現場

  東京都新宿区市谷本村町5-1

  現 防衛省の所在地である。

  23ヘクタールの広大な土地に、現在約1万人の人達が

  従事している。

  戦前・戦時中に掛けてこの地には、大本営陸軍部、陸軍省

  参謀本部、旧陸軍士官学校等があった場所である。

  昭和の歴史を振り返る時、避けては通れない重要な

  歴史の舞台・現場の1つといえる。

  戦後も、 この舞台で歴史に残る大きな事件等が

  演じられている。

     - - -

  昭和21年 (5月3日~23年11月12日)

   極東国際軍事裁判(通称東京裁判)が、この旧陸軍士官

   学校大講堂で行われた。

   今も写真等で目にする東京裁判が行われた場所である。

   当時の本館は建て直されているが、大講堂は、今も

   省内の一角に、「市ヶ谷記念館」としてそのまま移築

   再建されている。 壁・床等ほとんど全て当時のままで

   ある。

  昭和45年 (11月25日)

   三島由紀夫と盾の会数名で、旧陸軍大臣室(当時は

   東部方面総監室)で総監を人質に占拠、その部屋で

   自決という事件があった。

   その部屋も当時のまま「市ヶ谷記念館」に移築保存

   されている。

    (私事ながら、丁度その日その時間帯に、近くにある

     企業を訪問しており、パトカーやヘリコプターの騒音で

     何があったのかと、話していたことを今も鮮明に

     覚えている)

       - - -

  平成28年 3月某日

    市ヶ谷の防衛省を訪れ、初めて省内を見学する機会を

    得た。

    その日は、偶然にも防衛大臣もお見受けした。

    東京裁判の行われた講堂や、三島自決の部屋等も

    見学。

    暫し歴史の現場に足を踏み入れ、それなりに感慨・

    想うところも多かった。

    許可を得た場所での写真のうち2葉程添付しておく。

Dsc00635_2_2             (市ヶ谷記念館)

Dsc00638            (東京裁判が行われた構内)







泥試合2つ

  泥試合といってもスポーツの試合ではない。

  政治の世界(泥仕合)の話である。

  事は本来、泥試合と揶揄しているような軽い話では

  ないのだが、泥試合のように見えてくるから仕方がない。

    - - -

  1つは、総務大臣の「電波停止」もありうるとの発言に

  関してである。

  内容については周知の通りであり、詳細は略すが、

  要するに、放送法4条を順守しないと、電波停止もあります

  との大臣発言が、多方面で物議をかもしている話である。

  因みに放送法4条は次の通りである。

    1.公安及び善良な風俗を害しない事

    2.政治的に公平であること

    3.報道は事実をまげないですること

    4.意見が対立している問題については

      できるだけ多くの角度から論点を明らかに

      すること

  この条項自体は、至極まともな事柄であるし、

  これを順守しましょうというのも間違ったことを言って

  いるのではないが、改めて所轄大臣が、「公平でないと

  判断すれば、停止も有りうる」云々と公言すると、

  忽ちことは簡単では済まされなくなる。

  問題の起点は、「公平・中立の基準」やそもそも、その

  中立的な「判断」を誰が行うなのか という疑問が

  曖昧なままで、「停止論議」が先行する危険性である。

  スポーツの試合でも、片方の立場にある人の審判では

  試合そのものの醍醐味も薄れ、ブーイングの嵐である。

  果たして総務大臣に、「政治的に公平であるか」どうかの

  判断が出来得るのか・・・

  現状、議論を聞けば聞くほど「泥試合」にみえて

  くるのである。

    - - -

  2つ目の泥試合も、本質的に似たような話である。

  特定秘密保護法と会計検査院の関係についてである。

  これも詳細は略すが、要するに、会計検査院の資料

  請求に対し、特定秘密保護法を盾に、安全保障上

  著しい支障があるため提供を拒否する。という可能性

  の問題である。

  これに対する政府見解も、

  特定秘密の内容、入手の経緯のほか、保護措置の

  度合いによる としている。

  要するにこれも、その提供可否は、検査を受ける側が、

  特定秘密保護に照らし内容を吟味して「判断」する

  ということになる。

  果たしてこれでいいのだろうか

  何だか投手が自ら投げたボールのストライク・ボールの

  最終的判定権を有しているようにも思えてしまう

  これではスポーツの面白みも半減。

  なんだか本件も私には「泥試合」に見えるのだけれど、

  如何なものだろうか。 

 

 

 

 

 

 

天正という時代

  竹に節があるように、歴史の流れにも節目がある。

  「天正」の時代が、正に日本の歴史上大きな節目の1つで

  あったことは動かし難いことではないだろうか。

  天正は、1573年から1591年の19年間である。

  其の19年間で、1つの時代が終わり、新たな時代が始まる

  という画期的な様相変化が見られた。

  何よりも天正10年の「本能寺の変」が、その中核にある。

  信長はじめ従来から各地方で統治していたいわゆる戦国武将

  たちが、ことごとく消え、後を継いだ秀吉による「中央集権」化

  が進み、それによって国柄自体が大きく変貌したといえる。

  因みにこの時代に死去(滅亡)した武将たちを列挙してみると

  次の通りである。

   天正1  武田信玄(53歳) 朝倉義景(41) 浅井長政(29)

   天正5  松永久秀(68)

   天正6  上杉謙信(49) 山中鹿之助(39)

   天正10 織田信長(49) 明智光秀(55)

         武田勝頼(37)・・武田家滅亡

   天正11 柴田勝家(61)

   天正13 秀吉 長宗我部元親を討つ・・四国平定

   天正15 秀吉 島津氏を討つ    ・・九州平定

   天正18 秀吉 小田原城を攻める ・・北条氏滅亡

             家康に関東8国を与える 江戸城に入る

             (後の徳川・江戸時代に繋がる)

   これらを見ると、改めて1つの時代が終わり、新たな

   時代へとの分岐点であることが浮かび上がる。

      - - -

   さらにこの時代は、政権の動きに呼応して、様々な

   社会体制、外交、宗教、文化等において画期的な

   事柄が生じていることに瞠目される。

   興味深いところを列挙してみる。

    天正1  信長が足利義昭を追放 室町幕府の滅亡

    天正2  洛中洛外屏風図 (狩野永徳)

    天正4  安土城築城 ・・ 楽市経済政策

    天正7  イタリアのヤソ会宣教師来朝

    天正10 太閤検地 荘園の消滅 天正遺欧使節派遣

    天正11 大阪城築城  安土桃山文化の隆盛

    天正13 秀吉関白 5奉行制 中央政治組織の制度化

    天正15 天正通宝 大判・小判の鋳造 貨幣統一

    天正17 朝鮮との国交  → 出兵発令

    天正19 封建的身分制度の制定 士農工商制

          智積院襖絵(長谷川等伯) 千利休死去

  こうして天正の時代を概観すると、如何にこの時代が

  濃密にして、激変であったかが覗える。

  さらには、いい悪いは別にして、その後の日本に多大な

  影響を与える数々の萌芽がこの時期に集中していること

  が読み取れる。

  極めて興味深い歴史の節目と感じ入った次第である。

 

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