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2016年8月

古い写真

  猛暑の砌(みぎり)、暑苦しい世間の雑事(諸問題)は、

  暫し脇に置き、幼少の砌の事などを思い出しながら、

  暑さ凌ぎとしたい。

    - - -

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  うず高く積まれた古いアルバムの下の方から、

  ひよっこりと出てきた1枚の写真。

  何を隠そう、吾輩の人生初の「ツーショット」写真である。

  といっても、晴れやかな雰囲気は微塵もない。

  シャツをわし掴みにしているあたり、すでにこの頃から、

  男の純情が滲み出ているではないか。

  心理学者なら、この1枚の写真をみて、きっと男の

  心模様を面白く解説してくれるだろう。

  それはさておき、

  時は、昭和25年。吾輩小学1年生の七夕の頃である。

  昭和25年と言えば、まだ戦争の傷跡が生々しく残って

  いる時代。

  皮肉にも朝鮮戦争の特需で、経済復興の兆しが、

  少しずつ見え始めていたとはいえ、まだまだ重苦しい

  空気が充満していたことだろう。

  写真は、当然モノクロ、なんとなく時代を感じさせる写真

  だが、そういう時代背景のなかでの「ツーショット」。

  今風の洒落た子供たちの写真を見慣れた人達には、

  通用しないが、その時代を生きてきたロートルには、

  それはそれで、人生を感じさせる「1枚の古き写真」

  なのである。

    - - -

  さてこの写真、残念ながら 初恋の君というのには

  まだ二人とも若過ぎた。

  あと数年も先であれば・・・という想像の世界は

  自由だが・・・ 実は彼女、この写真を残して、

  その学年末に転校してしまったままである。

  サヨナラだけが人生、の始まりである。

    - - -

  古惚けた1枚の写真からも、様々な時代の様相、

  思い出が浮かび上がってくるものである。

  所詮、60年以上も前の昔話。

  写真記載したことも許してくれるであろう・・・。

人間の後ろ姿

  都知事選挙も終わり、新しい知事が生まれた。

  ある人が面白い事を言っていた。

  主要3候補のうち、自分は候補者の「後姿」で決めたという

  のである。 (この際、誰彼は関係ない話)

  都知事という大組織のリーダーたるもの、うしろ姿も、それに

  相応しいしっかりしたものでないと困るというわけである。

  顔形・表情や、口から出る言葉は、いくらでも装飾し、誤魔化し

  も利くが、後ろ姿は、案外その人の人間性や品性までも

  滲み出ると言う。

  公約実行に果敢に取り組むとしても、ふと後ろを振り返れば

  誰も付いてきていない、では事は為さない。

  特に大組織ほど、そういうものである。

  人は、リーダーのうしろ姿をみて付いてくる・・というわけで

  ある。

  勿論、それだけで選んだわけではなく、半ばジョーク混じり

  の雑談ではあったが、結構的を得た「視点」ではないだろうか。

  「うしろ姿」も真実を写す姿かもしれない。

    - - -

Dsc00743
        足早に生き急ぐ人生では

        単にゴリラのうしろ姿。

        時には立ち止まって、

        そのうしろ姿を凝視するがいい。

        彼の半生が見え隠れしてくるではないか

        ゴリラも時には、詩人になって思索に沈む。

        そのうしろ姿をみる我々をも詩人にしてしまう。

        うしろ姿の魔力。

       - - -

  舞台俳優が、最初に叩き込まれることは、客席(お客)に

  背を向けるな!ということらしい。

  その理由の1つは、役柄の人物から、素の人間になって

  しまうから・・という。結構深いではないか!

  そうした訓練、経験を経て、ようやく10年目くらいから

  背中で演技が出来る俳優が生まれるという。

  うしろ姿も結構大変なのである。

    - - -

  果たして、自分のうしろ姿はどうだろうか・・・・。

  今更の感があるが、

  まあ、残された人生、自分なりに日々真摯に

  過ごす事のみか・・・・。

 

 

世間の評価

  些細な事柄ながら、ある体験を通して面白い事に思い

  至った。以下はその顛末である。

    - - -

  日中の暑い盛りを避け、出来るだけ朝早くに、近くの

  公園を散歩するようにしている。

  「ウオーキング」と、洒落てみたいところだが、私の場合、

  どうみても「散歩」で収まりがいいというところである。

  ただ、一応「歩数計」を持参、池の淵や森の中という風情の

  一流(自選)コースを約5千歩ほど歩くのである。

  歩く速度だけは、どう見ても「散歩」ではあるが・・・。

  如何せん「体力増強」よりも、「気分爽快」を指向・・である。

    - - -

  さて、肝心の本題だが、

  ある時、ふと面白いことに気付いたのである。

  毎朝、同じように、同じコースを、同じような距離を

  歩いているのだが、微妙に歩数結果に違いが生じる

  のである。

  「人間だもの・・・」その日の体調等々で、「歩き方」に

  変化が生じているのである。

  比較的元気な時は、姿勢も凛々しく、自然と{歩幅」も

  広く、颯爽と歩いているのだが、なんとなく気怠い日は、

  「トボトボ」感で、自然と「歩幅」も狭くなっているのである。

  ということは・・・どういうことになるのか。

  結果として、同じ距離を歩いていても、「歩数計」の

  歩数は、大きく異なってくるという事実!に遭遇。

  極端な言い方をすれば、

     元気な時は   4千歩

     不調の時は   5千歩

  ということに相成るということである。

  さて、話がここで終われば、なんということもないが、

  ここから話を展開させるのが、ご隠居の面目躍如?

     - - -

  世間での評価というものは、大概対象の事柄を「数値化」

  して優劣を明らかにするのが一般的である。

  いわゆる全ての競争は、数字の競い合いでもある。

  さて、高齢化社会を背景として、「歩く」ことが多くの場面で

  推奨される昨今、

  たとえば、1日に3~4千歩歩いている人よりも、5千歩

  歩いています、という人の方が、なんとなく優越感を持ち、

  廻りからも一定の評価の目で見られることは、間違い

  ないであろう。

  たかが「歩く」という行為でも、世間の評価は、その中身や

  実態よりも、歩数計での「歩数(結果)」が優先される。

  歩数なら、どうということもないが、世の中見渡せば、

  重要な事象についても、世間の評価は、案外結果として

  の「数値」に振り回されているのではないだろうか。

  世間の評価だからといって、鵜呑みにしてはいけない・・、

  まあ、そんなことを「散歩」の徒然に思いあぐねていた、

  というわけである。

 

 

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