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2016年9月

お気に入りのベンチ

   たとえば 或る劇場での場合。

   全席自由席で、まだほとんど空席の状態。

   貴方は どのあたりに座りますか?

       - - -

   人には、本人も気付いていないような様々な習性が

   あるという。

   街には様々なところに・・・たとえば駅のホームや

   公園等々に ベンチが設けられている。

   暫しの休息、その際、人は瞬時に「好み」のベンチを

   選択してそこに座っている、と言われている。

   たとえば、よく行く公園のベンチ、ふと思い返すと、

   いつも、同じ処の同じベンチに腰掛けているという

   ことが多いという。

   たかがベンチ、されどベンチ、人は、夫々に自分なりの

   「好み」があるというのが面白い。

   勿論、ベンチそのものよりも、そのベンチからの光景や

   周辺の佇まい、落ち着きの雰囲気などを勘案したもので

   あろう。

      - - -

   言われてみれば、私にも「お気に入り」のベンチが

   2つ3つすぐに思い浮かんでくる。

   あの場所、あのベンチから観た富士山の全景とか、

   勝鬨橋周辺のベンチからの、夕暮れの隅田川・・・。

   また訪れれば、同じベンチに座ることだろう。

      - - -

   最近、そう度々行くこともない処だが、「お気に入り」の

   ベンチに遭遇した。

   旧岩崎邸にあった、撞球室前のベンチである。

   撮ってきた写真を記載させて頂く。

    Dsc00806
    説明書によると、撞球室はコンドルの設計で、

    スイス山小屋風の作りで、アメリカの木造ゴシックの

    流れをくむデザインとの由。

    なんともベンチとの調和が素晴らしい。

    暫し、このベンチに座り、風情を楽しんだのは

    いうまでもない。

    なんだか、部屋からひょっこり往年の西部劇スター

    ジョン・ウェインやモーリン・オハラが出てきそうな

    雰囲気も・・・・。
    

 

 

 

敬老の日に

     一杯のコップ酒  呑める幸せ  秋の空

                        (敬老の日に)

    いつまで この酒を 飲めるだろうか

    いつの間にか 秋の気配 

    朝夕は すっかり 秋の空である

    次々と 天災 人災 が押し寄せてくるのも この世の常

    人生は文字通り 日常生活が織りなす 一本の長い道

    天命のままに 黙々とその道を歩む。

        在るがまま

        有るがまま

        或るがまま   ・ ・ ・ でいいではないか

      の、境地は 人間 上り坂では 得にくいものである

      幕が降りる頃に ようやく感得するのも 人間らしい

      それはそれでいいではないか 人生起承転結。

    この歳になっても  夢がある。 

      「俺の人生 楽しかった ありがとう 」

    と,言って 消えていきたい。 という夢である。

                       敬(軽)老の日に  合掌

先見性

  「人の考えや感性は、本人が意識する、しないに関係なく、

  多かれ少なかれ、その時代の様相に大きく影響を受けている」

  ということは、誰もが否定し得ない現実であろう。

  したがって、 後世、「あの当時、何故このような考えが・・・」

  と、批判したところで、その時代の様相を踏まえないと、

  意味のない空論になりがちである。

  今日に生きる我々も、時代の空気にまみれながら、その

  枠組みの中で、アレコレと考えているのではないか・・・

  ということを、自覚しておくことも肝要かと思うのである。

    - - -

  そんな事を思うに至るキッカケは、

  1974年の我が国「人口白書」で、そのサブタイトルが、

  「静止人口を目指して」とあった、とある新聞で読んだ

  事である。

  当時の国の目標(課題)は、如何に人口増加を阻止するか

  にあったわけである。

  翻って、今日の我が国最重点課題の1つは、言うまでもなく

  「少子化対策」である。

  因みに、直近の国勢調査(人口 1億2700万)で、いよいよ

  我が国も人口が減少に転じたと大きく報じている。

  さて、1974年といえば、ほんの40数年前である。

  国の目標として、現在とは真逆ともいえる、人口増加の

  阻止を掲げていたのである。

    (余談ながら、それより何十年前の戦時下では

     産めよ増やせよと言われていた由)

  勿論これも、当時の途上国の人口爆発等を背景に、

  国際的課題として日本も同調して・・・ということだったかと

  推察する。

  それにしても・・・である。

    - - -

  本来、人口動態は、経済見通しや、その他様々な将来

  予測をする際には、極めて確度の高いファクターとして

  インプットされるものである。

  その人口問題においてすら、国の基本目標(政策)が、

  ほんの半世紀にもならない間に真逆の目標設定が

  なされる現実に、我々は着目しておく必要がある。

  これは、上述した通り、単なる批判としてではなく、

  人間の考える事(特に将来を見通すことについて)は、

  如何に現状の様相に左右されるか、という観点からである。

  改めて、 「先見性」とは?・・・と考えさせられるのである。

 

 

 

 

先人の偉業

   現代社会に生きる我々の日常生活も、先人達によって

   積み上げられた数々の偉業、功績によって成り立って

   いる、ということをつくづくと感じることがある。

   人間1人のほんの短い半生においても、生まれた頃は、

   未だテレビやクーラー、固定電話すら各家庭には無い

   時代であった。

   人類の歴史からみれば、ほんの一瞬に過ぎない半世紀

   位の間に、この生活の伸展振りは、如何なもので

   あろうか。

   その間の科学・技術等の発展は驚異ですらある。

   その反面、もしかしたら我々は大切なものを

   失くしてきた、という一面もあるのかもしれないが。

     - - -

   人類の偉業といえば、その象徴として、幾多の

   発見・発明を思い浮かべることになるが、

   たとえば、世界の3大発明・・・といえば、

   一応、印刷、火薬、羅針盤、が通説になっている。

   が、印刷技術については、多大な恩恵に浴しているが、

   他の2つについては、極く限られた世界でのものであり、

   人類への貢献と言う点では今1つの感がある。

   もう少し身近なもので我々の日常生活に貢献している

   ものは何だろうか・・・遊び心で我流3大発明。

   世界中の人々の日常生活に貢献してきて、今も

   貢献し続けている その貢献の総量で選んでみると、

   時計、眼鏡、自転車 となった。(あくまで独断)

   これらは、今や身近にあり過ぎて、「発明」という概念

   から遠く、その有難味が薄れているものの、

   もしこれらが、無かったら・・・

   例えば、時計を自前で作るなんて不可能。

   精々庭に垂直に棒を突き立てて「日時計」なんて

   洒落にもならない。

   眼鏡、自転車も然りである。

   今や「当たり前」のように使用しているが、

   文字通り、先人達によって受け継がれた創意、工夫

   改良の賜物である。

   夫々の起源を辿るとそれらしき記載に接することが

   できるが、飛行機や自動車、ダイナマイトのように、

   歴史に名を遺すことがないのが、如何にも身近過ぎる

   モノの宿命なのか・・・。

     - - -

   歴史に名を留めない発明であっても、世界中の人々が

   その恩恵に浴している「名も無く美しい」発明品がある。

   モノの世界と同様、人間の世界にも当てはまる話では

   ないだろうか。

 

 

 

 

「車社会」を考える

   10年先、20年先の市民生活を推察する際、キーワードの

   1つになりそうなのが、今日の「車社会」がどう変貌するか、

   ではないだろうか。

   その背景と言うか、根拠は「高齢化社会」である。

   平たく言えば、高齢化社会の進行で「車社会」はどう

   なるか・・という事である。

   現在、すでに65歳以上の総人口に占める割合は26%。

   実感はないが、4人に1人が65歳以上という現実。

   因みに75歳以上は8人に1人ということらしい。

   今後さらにその人口構成は高まってくる。

   ということは・・・どういう社会が到来するのか・・・。

     - - -

   現在、すでに私の周辺でも、免許証の返上とか、

   運転を止めるという動きがちらほら表れている。

   その傾向は今後1つの社会現象となることは

   ほぼ間違いない。

   それに伴い、個人(各家庭の乗用)車を手放すと

   いう動きも目立ち始めるに違いない。

   但し、車そのものの需要は急減することはないと

   考える。

   行き着く先は、「車社会」の中身の変容ということでは

   ないだろうか。

   たとえば、1つ考えられる事は、自家用車から

   「公共(乗合)車」へのシフトの動きである。

   すでに園児や介護関係の送迎バスにもみられるが、

   今後さらに多方面の分野で活用がなさるるように

   なるのではないだろうか。

   民間事業においても、すでに、ホテルやゴルフ場などで

   送迎バスの導入が散見されるが、今後は、たとえば

   大型ショッピングセンターや、アミューズメント等が

   自前の無料巡回バスなどで、地域の特に高齢者の

   集客に・・・という動きが当たり前の時代がくるかも

   しれない。

   勿論、高齢化社会に対応した企業戦略(顧客囲い込み)

   の1つとしてである。

   どこかがやり始めれば、案外こういうことは

   我も我もと拡がり当たり前の現象になるものである。

   「車社会」もその実態は大きく変貌する・・と見ておきたい。

     - - -

   「車社会」の変貌に関連して、更に重要なことは

   「道路行政」の在り方の問題である。

   従来ややもすると、行政は、社会実態に対して

   後手後手に廻る傾向があった。

   果たしていつまでも 「車」が主役の道路行政のままで

   いいのかどうか・・・考え処である。

   今から10年以上も前に、ある所管省の幹部が、

   これからの道路行政も、「車」主体から「人」主体の

   時代が来る、と発言していたのを覚えている。

   高速道路や、幹線道路の整備拡充も勿論重要課題だが、

   人の歩く道、生活道路の整備こそ重要になるとの主旨で

   あったかと思う。

   今、改めて高齢化社会到来を踏まえ、「慧眼」かと思う。

     - - -

   少し話が逸れるが、バブル華やかな頃、予算が潤沢

   だったのか地元の要請に応じて、「歩道橋」があちこちに

   設置された時期があった。

   多くは必要にして有効であったのであろうが、中には

   何故ここに?というところにも出来ていた。

   流石に今、新設の話はあまり聞かないが、現在東京

   には約700余の歩道橋があるらしい。

   見方を変えれば、「歩道橋」は車主導の道路行政の

   名残でもある。

   ある強い雨の日、お年寄りが傘を斜めにさして、

   歩道橋の階段を一歩一歩昇っておられるのをみて

   なんだか考えさせられた事があった。

     - - -

   「高齢化社会」の本格的到来は、行政の在り方も

   従来の「先例に習う」方式では通用しなくなった。

   「車社会」の検証1つとっても、様々なことが想起

   されるのである。

 

 

 

 

「曲」の意味

   このブログは、偶々「曲視曲言」という表題でスタートし、

   今日に至っている。

   文字通り、いい加減なことをいい加減に・・という程度の

   もので、内容もその域を脱していないわけだが、そこはそれ

   直視直言では如何にも愚直過ぎて、多少は「ひねり」を

   利かせて 見え見えながら「曲視曲言」とした次第。

   ただ、その深層には・・・

   と、まあ私のブログの事なんてどうでもいいことだが、

   この「曲視」や「曲言」の 「曲」と言うのが、実は

   案外の「曲者」という話をしておきたい。

     - - -

   「曲」から受ける印象としては、まず「曲がる」とか、

   「曲者」 「曲解」などの、どちらかといえば、マイナス

   イメージが強いのではなかろうか。

   ただこの「曲」、突き詰めていくと、案外別の顔が

   浮かび上がってくるあたりが、なんとも「只もの」では

   ないのである。

   まずこの「曲」という字、改めてじっくりみると、

   如何にも「訳アリ」に見えてきませんか。

   具象のようで抽象、平凡のようで非凡、一見図案の

   ようにも見えてくるではありませんか。

   曲がるという意味の字が、直線だけで出来ている・・・

   その字が、音楽の「曲」の意味まで持たせるとなると

   これはもうミステリー!

     - - -

   そこで、とりあえず広辞苑でその意味を抑えておくと

   次の通りである。

     1  まがっていること

     2  正しくない事  よこしま

     3  音楽や歌謡の調子  ふし

     4  軽業 手品曲馬などの技の変化

     5  音楽 歌謡の段落

     6  楽曲

     7  おもしろみ 興味

     8  漢詩の一体 思うことを湾曲に述べること

   如何にも一筋縄でいかない「曲者」振りではないか。

   因みに、「曲がない」という意味をみると、面白みが

   ないとか愛想がないとある。

   「曲」は決してマイナスイメージだけではなく、プラスの

   概念も内包しているのである。

   見事にプラスとマイナスを弁証法的に合一した

   概念なのである。

     - - -

   かの松岡正剛氏もあるところで次のように述べて

   おられる。

    (以下私の拙なる要約でご容赦)

     「 驚くことに、日本では音楽のことを{曲}と

       書きます。これって{曲がる}ですよね。

       これもまさに{てりむくり}です。

       日本の{曲}には、日本の矛盾、日本の葛藤

       そのものが含まれているんですよ…{略} 」

   私自身これを十分理解しているわけではない(関心の

   あるむきには、氏の著作に直接当たって頂くか、

   とりあえず{てりむくり}で検索」  が、なんとなく

   ぼんやりとではあるが、自分の思いを、適格に代弁して

   頂いているような波長を感じたので、ほんの一部を

   記載させて頂いた次第。

     - - -

   世の中や物事も、一面だけを踏まえた「直視・直言」の

   応酬では、風雅にも妙味にも欠けるというものである。

   人間だって 少しは「曲がって」いるところや、いい意味

   での「曲者」振りがあるほうが魅力的かもしれない。

   なんとかこの「曲視曲言」も・・・と真夏の夜の夢。

 

 

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