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余韻の妙

       柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺

                 - 正岡 子規 -

   ご存知、最も有名な正岡子規の句である。

   一見単純な句に見えるが、短い17文字のなかに

   状況 場所 風景 季節 作者の情感まで感じさせる

   流石に凄いものである。

   ただ、中学生の頃だったと思うが、初めてこの句に接して

   お寺の鐘も「鳴る」というのか・・・と当たり前の事を

   なんだか変と感じてしまったことがあった。

   鐘が鳴るといえば・・・キンコンカン。

   その辺からなんだかややこしく深く考えてしまったのか。

   西洋の鐘なら 「鳴らす」→「鳴る」→「キンコンカン」 で

   違和感がないが、

   お寺の鐘は 「つく」 →「鳴る?」 →「ゴォーン」

   鳴るなら「鳴らす」じゃないか じゃあ何かい、お寺の

   坊さんは毎朝定刻に鐘を「鳴らして」いるの?  と

   変なことに引っかかるいやな(それとも繊細、あるいは

   哲学的思考?)中学生だったものである。

      - - -

   さて、前説に続き、さらに前説の第二弾。

   好きな食べ物は最初に食べるか、それとも最後に

   残しておいて食べるか という設問がよくある。

   私の場合は、どちらかと言えば最初に食べる方である。

   が、時と場合に応じてほんのひと口分を残しておいて

   最後に食べることがある。

   別に「せこい」というわけではない。

   私なりのある考え、想いによるものである。

   それは、食事も酒(席)も後味を大切にしたいという

   思いからである。

   その為に最も好きなものを最後に少し食べて終わりにする。

   後味の悪い食事はしたくないし、酒席でも、今日も楽し

   かったねと言い合ってお開きにしたいという思いである。

   文字通り「余韻」を大切にしたいのである。

   と、 ようやくここで表題の「余韻」に辿り着いた。

      - - -

   過日、京都のある名刹の本格的な鐘をつく機会を得た。

   小さな鐘なら今迄もついたことはあったと思うのだが、

   立派な梵鐘をつくのは初めての体験であった。

   自らついた鐘の音が遠くまで響き渡っているのかと思うと

   なんだか身の引き締まる気分になるものである。

   それよりもなによりも、鐘の音というものは、想像して

   いた以上に、余韻が長く続くということを体感した。

   余韻が続いている間に、なんとなくこころが静まっていく

   ように感じたのは不思議な感覚であった。

   これが「お寺の鐘」の所以なのであろうか。

   「鐘の音は、余韻まで含めて鐘の音」ということを

   改めて実感できたことは、流れの速い現代社会への

   なんらかの示唆、と思ったことであった。

 

 

 

 

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