日記・コラム・つぶやき

日本人の原点(笑点流)

  人間の身体は、60%の水分で出来ている、らしい。

  外観からは想像も出来ないが、どうやら真実は容易に目では見えない

  ところに潜んでいるらしい。

  ところで唐突だが、「日本人」は何から出来ているのか?

  日本人の形成に多くを占めている要素は何か?

  別段学術的に探究するわけではない

  いつもの詐欺紛い?の「遊び心」である。

    - - -

  日本人の原点と言えば、その特質として「農耕民族」というあたりが

  頭に浮かぶ。

  農耕民族と言えば 「田」という連想に繋がる。

  そこで、身体と水分の関係を真似て、 

   「日本人は60%が田で出来ている」という仮説?を立ててみた。

  その無理やりの根拠は次の通りである。

   (遊び心の無い方からはバカにされるだけだが・・・)

    - - -

  木田 林田 森田 杉田 桜田 柳田 桑田 梅田 竹田 稲田

  米田 黒田 青田 山田 川田 谷田 岡田 滝田 池田 沼田

  堀田 深田 浅田 上田 横田 中田 下田 半田 大田 広田

  西田 北田 南田 砂田 石田 岩田 墨田 金田 奥田 近田

  向田 加田 丸田 水田 角田 土田 細田 高田 原田 塚田

  寺田 神田 天田 福田 幸田 真田 吉田 三田 八田 千田

  久田 末田 永田 長田 萬田 絹田 麻田 郷田 合田 野田

  羽田 波田 門田 根田 戸田 織田 江田 伊田 井田 町田

  市田 内田 細田 増田 今田 矢田 本田 箱田 秋田 春田

  折田 重田 正田 満田 斉田 村田 家田 瀬田 島田 津田

        まだまだ有りそうだが、このあたりで終わりダ(田)!

        どうだ マイッタ(田)か!(笑)

        仮説もなんだか真実に見えてくるから不思議デスね。

 

 

 

大臣の資質(加筆)

   昨日のこのブログ「大臣の資質」で、最近想う処を率直に触れ、

   政治家の「人材不足」・・・という処まで筆を進めたが、それは

   それでよしとして、偶々 「人材」ということに関して、今朝ある本を

   読んでいて、こころに響いた記述に出合ったので、加筆しておく。

       亡国の悲劇とは

       人材が欠乏するから起こるのではなく

       人材はいてもそれを使いこなすメカニズムが

       機能しなくなるから起こるのだ。

          ( 「ローマ人の物語を書き終えて」より )

                              塩野 七生 

   鋭い指摘と感服した。

   政治の世界だけではなく、民間企業や、あらゆる組織に

   当てはまる事ではないだろうか。

   どこかの国の総理にも、是非噛みしめてほしい警句である。

 

我々の世代

   「団塊の世代」とか「ゆとり世代」とか、ある時代の人達の

   特徴的な様相、気質などを1つのキャッチフレーズで表現される

   ことがある。

   然れば、我々の世代は・・ と一寸した遊び心で、以下私なりの

   独断的小考である。

     - - -

   吾輩の事などどうでもいいことだが、戦争も真っ最中の

   昭和18年の生れである。

   戦中の生れと言えど、戦争についてはほとんど記憶の外で、

   モノこころ付いた頃には、戦争は終わっていた。

   その後、70余年、有難いことに鉄砲を担ぐこともなく、今日まで

   半生を過ごしてきている。

    余談だが・・

   やや誇張された話かと思うが、米国と戦争をしたことを知らない

   若者が居るらしい。

   「で、どちらが勝ったの?」というオチまである。

   まあ、そういうレベルになると「平和ボケ」の様相という事に

   なってしまう。

   そんな事はさておき・・・

   本題の「我々の世代」は果たして・・という事になるが、

   一応我々の世代を、昭和16,7年頃から19年頃生れの

   世代としておく。

   安易に思い付くままのイメージとしては、「戦争実感のない

   戦中生れ」 「団塊世代の兄貴分」 「戦後の実質一期生」

   等々あるが、それよりも私が勝手に命名した「踊り場世代」

   というのが、結構気にいっている。

   勿論、「踊り場」は階段の途中の「おどりば」で、「ダンスホール」

   ではない。

   「踊り場」から連想して・・・ 分岐点 転換点 一休止 潮目

   沸騰点 破調・・・と並べてみると、なんとなく我々世代の

   匂いを感じませんか。

      - - -

   戦後の総理大臣で、我々世代は「小泉純一郎(S17年生れ)」の

   1人だけである。

   私には、如何にも「踊り場世代」の様相と思えてくるのだが、

   如何なものであろうか。

   少なくとも、伝統や体制を守り次の世代に引き継ぐといった

   保守本流の総理ではなく、どちらかといえば異質、異能の

   総理であった。

   文字通り、いい意味での破調を彷彿とさせる「踊り場世代」の

   面目躍如ではないか。

     - - -

   省みるに、我々世代は、時代的に幸せな時を過ごしてきたのでは

   ないだろうか。

   ある呑み仲間が、我々は「強運・幸運の時代」だったと懐古した

   ことがある。

   言われてみれば、成る程と頷ける。

   勿論、個々には紆余曲折、様々な危難や苦労が無いわけでは

   ないが、総じてみると、敗戦から戦後の混乱を経て、復興から

   高度成長、経済大国への道程を体感できた世代である。

   さらにバブルやその崩壊といったオマケ付きであった。

     - - -

   我々の親父から以前の世代については、 小唄や都々逸が

   鼻歌まじり という時代であったらしい。

   一寸小粋な町内には、小唄の師匠なんかが住んでいたらしい。

   翻って、我が世代 小唄や都々逸を・・なんてのはあまり聞いた

   ことがない。

   文化・道楽の分野でも、なんだか我々世代から潮目が変わった

   とはいえないだろうか。

   それを団塊の世代が、物量?にものをいわせて、世の中を

   大きく変えていった。

   それを「テレビ時代」が定着させた・・という流れが1つ考えられる。

   結局、我々世代は、日本の折り返し地点での役割で、戦前の

   様相と一線を画し、さりとて 戦後の現代っ子のリズムにも

   どこかで馴染めないところを有する文字通りの「踊り場世代」。

   それはそれで、良き時代に恵まれた強運にして幸運な

   「踊り場世代」というのをとりあえずの結論としておこう。

   以上 私なりの「踊り場世代」小論である。

 

 

 

地元の「自慢」話

   近頃よく耳にする「パワハラ」というのには、いかにも

   他愛のない事だが、それなりに地位のある人が、目下の

   人達の前で長々と自分の自慢話をしたりするのは、

   兼好さん流に言えば、なんともこころ卑しく感じるものである。

   特に酒の席でこれをやられると、忽ち酒が不味くなると

   いうものである。

   なんの地位も持ち合わせのない吾輩も、それなりに

   気使いの1つとして、心掛けてきたつもりである。

   が、最近になって この「自慢話」にも別の一面がある、

   という 一寸おもしろい話を教えられた。

   その説というのは、それなりの高齢者にとって、

   自慢話は「長生きの特効薬」だというのである。

   人間は元々存在認知の欲求本能があり、若い頃の

   社会生活においては、多かれ少なかれ「評価」(非難も

   含め)の対象に晒されているが、リタイア―後の高齢者は

   それが急速に減少する。

   歳を経てもなお仕事や趣味の世界でスポットライトを

   浴びている人達は別として、大概の高齢者にとって、

   そうした欲求を無理に抑えたり、我慢したりするのは、

   心身共に悪影響。

   したがって、「自慢話」という自己表現は、年寄の特権、

   位に思って丁度よし、というわけである。

   さらに大切な事は、それらの自慢話を、黙って聞いてくれる

   家族や友人が居るかどうか・・・が最大のポイント、と

   教えている。なんともグサリと胸に突き刺さる説ではある。

   これらの説を全幅に取り入れて、あたり構わず自慢話を・・

   というのも品性を欠くことになるが、 この「長生きの特効薬」

   という事を頭の隅に置いておくのも悪くない、と思うのだが

   如何なものであろうか。

     - - -

   早速調子に乗って、以下に地元の自慢話でもして、

   「長生きの特効薬」を一粒飲んでおくことにする。

   生まれ育ちは京都だが、偶々縁あって国分寺に

   住み着いて27~8年になる。

   有難いことに、地元の長老・諸氏とも親しくさせて頂き、

   今ではすっかり「国分寺市民」として定着している。

   この国分寺という地名(市名)、歴史を辿ると、

   周知の通り、聖武天皇による「国分寺建立の詔」に遡る。

   少しく当時の関連年表を記すと次の通りである。

     701年 (大宝元年) 首皇子(のちの聖武天皇)誕生

                  大宝律令制定

     717年 (養老元年) 遣唐使派遣(安倍仲麻呂他)

     720年 (養老4年) 日本書記完成

     724年 (神亀元年) 聖武天皇即位

         (旱魃 大地震 天然痘流行・・・)

     741年 (天平13年) 国分寺・国分尼寺建立の詔

     752年 (天平勝宝4年) 東大寺大仏開眼供養

   さて、我が地元国分寺自慢だが、

   国分寺建立の詳細は略すと同時に、私があれこれ言った

   ところで説得力もなし、ここは聖武天皇にお任せすることに

   しましょう。

   幸い、「建立の詔」が残っているので、その一部を記せば

   我が地元自慢として十分である。

    「塔(七重の塔)を構える国分寺は国の華となるもの

     であるから、必ず立地条件の良いところを選び、

     永久に存置させるように。

     人里は薫臭が及び、遠方であれば出掛けるのが

     煩わしく集まりに不便である。

     国司たちはこれを念頭に置いて国分寺を厳かに

     飾り清潔に保つようにせよ」

  なお、国分寺68ヶ所のうち、現在市名として受け継がれて

  いるのは、我が地元国分寺のみとの由である。 

    11300013
      (国分寺 跡地)
    11300015_2

       (現 国分寺)

                             以上

 

 

 

「日本語」の話

   ある英語(会話)が堪能な人に言わせると、

   日本人が英会話が苦手なのは、英語教育の影響も

   あるのだろうが、簡単に言えば、口から発せられた言葉を

   頭(脳)で捉えようとするからである、と言われた事がある。

   そのままストレートに「耳」で捉えなさい、聞きなさい、

   そして聞いたままを話しなさい。というわけである。

   さらに、米国ではまだ知識も朧気な幼児でもママと会話

   しているよ、と駄目押しのパンチを食らう。

   成る程そういうものかと、「頭(脳)」では解かったつもりに

   なるが、それが英会話の上達にさっぱり至らず、相変わらず

   数少ない知る限りの単語を「頭」で絞り出して並べるだけの

   テイタラクである。

   まあ私の自嘲話はどうでもよくて、これらの話からふと

   思い浮かんだ・・・日本語(会話)の話を以下に・・・。

   もしかしたら、我々日本語の会話も、流暢!に語り合えて

   いるのは、1つ1つの単語を頭で捉えているのではなく、

   あたかも「耳」で捉えたままを、記号判読のようにして

   会話を成立させているのではないだろうか。

   たとえば、 「 折角行ったのに、生憎 お店は休み」

   と言われれば、1つ1つの単語を頭でその意味を反芻して

   いるのではなくあたかも記号のように全体を耳で捉えた

   ままにその意味を理解し、次の会話につなげる・・・

   だからこそ「会話」が成立している・・・のではないだろうか。

   ところが、この短い言葉でも、頭(脳)で捉えて1つ1つの

   単語をあれこれひねり始めると 日本語が堪能?な

   我々でも結構厄介になる。

   たとえば「せっかく」と聞けば、大概の日本人はその意味を

   理解できるが、 何故「せっかく」? せっかくは「折角」だが

   何故「折れた角」が「せっかく」の意味につながる?と

   頭でひねくり始めると、当り前のように使いこなしている

   折角も何故「折れた」「角(つの)」か?の問いに

   正確に答えられる人はそう多くないのではなかろうか。

   「生憎」も同様に、何故 「生」と「憎」 で「あいにく」なの?

   ますますもって厄介である。

   その「厄介」って? と質問が続くと さて困った。

   会話には何ら支障なくこれらの言葉を使い熟しているが

   1つ1つの認識はとなると、 その程度 と思い知る。

   なんの事はない、英会話堪能者の「アドバイス」と底辺で

   よく似ているな と感じたのである。

   だからといって、これから英会話に再挑戦 とつながらない

   のが、ご隠居のご愛敬(笑)!

    (余計な事ながら言語の由来は「語源由来辞典」検索)

 

 

 

 

数の話

   私が社会人になった頃(昭和40年代)、当時の国家予算は

   確か3兆円台で推移していたように記憶している。

   兆という単位の数字が珍しい時代で、その数値をみるのは

   精々国家予算位で、大概は、「億円」単位で済む時代で

   あった。

   それが、約半世紀後の今日、国家予算は100兆円台の

   規模である。

   1企業の年間売り上げが兆に達するのが珍しくなくなってきた

   というのだから、驚きでもある。

   そう言えば、大金持ちを「億万長者」と称したものだが、今や

   年俸億単位のスポーツ選手がゴロゴロのご時世である。

   普段何気に見過ごしているが、立ち止まって世の中を

   観察すると、時代の流れを実感する。

   それに比して、人間様の資質・能力・モラル等が伍しているか

   どうか一寸心配ではあるが・・・。

   やがて、「京(けい)」という単位の数字が闊歩する時代が

   くるのだろうか・・と思うと「ひと事」ながら一寸面白いでは

   ありませんか。

     - - -

   億だ、兆だと思案していて、ふと数の単位に関心が移る。

   昨今、ネットの検索という便法もあり、数の単位なんて

   珍しくもないが、以下に記しておく。

   あくまでメモとして記録しておくだけの事にてご容赦。

     (無限大)            (無限小)

     1                 分

     拾                 厘               

     百                 毛

     千                 糸

     万                 忽

     億                 微

     兆                 繊

     京                 沙

     垓 (がい)           塵 

     柹 (し)             埃

     穣 (じょう)           渺

     溝 (こう)            漠

     澗 (かん)           模糊

     正 (せい)           逡巡

     載 (さい)           須臾

     極 (ごく)            瞬息 

     恒河沙 (ごうがしゃ)     弾指

     阿僧祇 (あそうぎ)      刹那

     那由他 (なゆた)       六徳

     不可思議 (ふかしぎ)    虚空

     無量大数 (むりょうたいすう) 清浄

 

      数の単位に不可思議とか刹那などがあるのが

      面白い。

      あくまで漢字文化圏のもので、他にも無量大数より

      先の単位があるらしいから楽しくなってくる。

      それにしても、数の単位なのだから、3不可思議とか

      5不可思議なんて使う時代がくるのだろうか。

      今、一寸使ってみませんか

      相撲界は 8不可思議なんて、

      周りから「不思議」がられますけれど・・・。

 

費用対効果

  年早々の話題としては、あまり芳しいとは言えないが・・・。

  正月の新聞などで、各分野のトップの方々の年頭所感を

  目にするのだが、そのなかで、特に私のアンテナに引っかかり

  関心(マイナス方向で・・)を持ったことが3つあった。

  それらの共通点が「費用対効果」というわけである。

  その3つとは、

     マイナンバー制度

     裁判員制度

     リニアモーター新幹線計画   である。

  勿論、当該トップの年頭所感だから、肯定的かつ楽観的な

  内容で、マイナンバーも裁判員制度も、夫々当初の思惑通り

  順調に定着してきており、今後益々その効果・恩恵が期待

  出来るというものであった。

  リニア新幹線も、次世代の目玉と称賛している。

  ここで、夫々について細かく触れることは避けるが、

  総じての感想として、それら所感の全てを否定するつもりは

  ないが、現状マイナンバーや裁判員制度が、当初言われて

  いた程の実効や改革に順調な成果・・・って本当? と

  言うのが正直な実感である。

  勿論なんらかの効果が生じていることは認めるとしても、

  あくまで費用対効果という視点でみた感想である。

  マイナンバーなどは、なんだか本末転倒で、折角作ったの

  だから、なんとかもっと活用する方法はないか・・・と

  思案しているように見えるのだけれど・・・違いますかね。

  (そういえば住民基本台帳カードは・・ よく覚えていません)

  リニア新幹線も、完成すれば勿論便利にはなるだろうが、

  少子高齢化社会の次世代、果たして「必需」かどうか

  考え処である。

  案外、公表はされないが、現在の東海道新幹線の老朽化

  金属疲労から、「代替」ということを密かに検討されている

  のではないか・・・と根拠のない私の独り言。

  財政赤字下で、巨額の投入してのこれらの大プロジェクト。

  私だって、国民の一人として、足を引っ張るだけが能でない

  事を承知しているし、反対のための反対をするつもりもない。

  そういえば、今の新幹線も計画段階では多くの反対意見が

  あったとの由。リニアもそれらの反対を見返すようなものに

  なってほしいものだという願いもある。

  ・・・というのが全てを次世代に託すご隠居なりの年頭所感!。

平成30年の新春

     平成30年 3ヶ日とも快晴。

  節目の新春ということで、身を清め、厳粛な気分という

  ところだが、まずは例年通りの正月。

  例年通り・・・ということが 悦ばしき事 とも言える。

  平成30年の新春を記憶(記録)に留めて置きたいという事

  もあって元日は、近くの公園の森から初日の出を拝む。

  2日は、多摩川散策 見事な「初富士」である。

    Dsc01086_3

  家にあっては、若き日に読んだことのある中島敦の

  「山月記」などを再読。

  そして勿論 大晦日から正月にかけて酒三昧。

  今年は思いもよらない、ある酒を入手。

    Dsc01081

  酒の肴もそれなりに、酒がすすむ筈である。

    Dsc01083_2   Dsc01082

  と、 平成30年の新春は 予定通りの「出来栄え」であったが、

  さて、このブログ、私が最も嫌う世間によくあるブログのような

  様相に・・・。

  まあ、正月ということで、ご容赦!

  改めて、顔を洗い出直して参ります。










 

 

 

沙羅双樹の花の色

 

    Dsc01079

   「一寸パリに行ってきました」 と 大法螺吹いて恰好を

   付ける歳でもなし。

   写真は、都内「新宿御苑(フランス庭園)」  

   我が気に入りのベンチからの景観です。

   12月も後半になり、世間では大半の国民が、慌ただしく

   駆けずり回っている季節だが、一休止の休日、

   大勢の人達が犇めくあうような人気スポットを避け、

   静かな佇まいに身を置くことを選ぶのはいつもの流儀。

   (本当の処は、加齢による心身の億劫さ?)

   ということで、東宮御所(勿論内ではなく堀の外側)から

   新宿御苑に出向く。

   幸いにマフラーもいらない陽光の昼下がり、ほとんど

   人影もまばらの、広い青空の下で、暫し思索に耽る。

   (時折過るは、今宵の酒のつまみは何?という一大事。)

   それでも、ご隠居にとっては誠にもって、至福の

   時間・空間でございました。

    (写真からも想像いただけるのではと存じます)

    さて、さらに興味深いモノにめぐり合った話・・・。

   その新宿御苑内にある温室に、仏教3大聖樹わけても

   「サラソウジュ」をみられたこと。

    Dsc01078

    (因みに3大聖樹は 無憂樹 菩提樹 沙羅樹)

   サラソウジュ(学名shorea robusta)は、中国経由日本

   にて我々日本人は「沙羅双樹」として馴染みがある。

   特に、周知の通り 平家物語の「沙羅双樹の花の色

   盛者必滅の・・・」が思い出される。

   沙羅樹2本の樹の下で釈迦入滅の伝えにより、「沙羅双樹」

   と呼ばれるに至ったという説がある。

   なんとなく樹の名前は、いつの間にか知るようになっていたが

   今回じっくりと見るのは初めてであった。

   これもまた至福なり。

   クリスマスの時期に「沙羅双樹」の話、

   この「コラボ」もまた何かのご縁(導き)としておこう。

 

   

 

   

陶淵明の境地

   半藤一利さんのエッセイに次のような一文があった。

   陶淵明に触れた話の続きとして、陶淵明の境地を

   短い文章に明解に綴られたものである。

   そのまま記させて頂く。

     「 権勢に媚びることを嫌って官職を辞し、

       帰郷して田園生活を楽しみ、貧を恐れず

       酒を愛し、大自然に没入して、恬淡高雅な

       境地を詩にうたった」

   誰もが、1つの理想の生き方としてふと、こころに思い描く

   境地ではないだろうか。

   ただ、現実の社会では、これらの生き方を人生の敗者

   あるいは負け犬と証するのも一面の真実であろう。

     - - -

   一方で、必ずしもその境地を是とせず、現実の社会に

   立ち向かう人達がいることも、この世の面白さである。

   その辺の人達について、やや滑稽な姿をデフォルメし、

   上記半藤さんの妙文のカケラもなく、我流にて以下に。

      「 権勢に媚びへつらい、 なんとかものにした

        ポストにしがみ付き、永田町・霞が関界隈で

        毎夜無粋な酒に酔い、塵芥の世界に没入して 

        傲慢無礼な姿勢を貫く 」

   単なる「パロディ」だが、なんとなく それらしい人物像が

   浮かび上がってくるから不思議です。

   恐らく、都心の一等地にある高級マンションなんかに住み、

   口を開けば偉そうに上から目線の下品なセレブ・・・。

   これらの人達に、現代社会では人生の成功者と証するのも

   また一面の真実なのでしょう。

      - - -

   さて、組織論のある説に、1:8:1 あるいは 2:6:2 の

   原理というのがあるらしい。

   大抵の組織をなんらかのモノサシで分類すると、このような

   構成比に収斂するというものである。

   代表的な例として、中流階級意識論(富裕層・貧困層は

   精々夫々1割以下 その他大勢が中流意識)がある。

   この説を踏まえれば、上記の 「陶淵明風」 「セレブ風」は

   まあ精々1割以下がいい処であろう。

   他はどちらにも属さないその他大勢!。

   勿論、我は といえばその他大勢の平均的日本人の

   末席でうろうろしているご隠居という処。

   まあそれでも、「人の生き方なんて 人の数ほど多種多様」

   という名言?があるように 人それぞれ!

   まあ、そんなことはさておき・・・

   読書の愉しみの1つは、思いもかけないヒントや刺激を

   得られることではないだろうか。

   今回も、半藤さんのエッセイから刺激され陶淵明の本でも

   手に取ってみようかと思っているところでございます。

 

 

 

 

 

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